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No.2 女性会員をウォッチング [Y'sdom Watching]

 東日本区では、次々期(2013-2014)理事に渡辺喜代美さん(十勝クラブ)が内定し、ここ数年、区の役員にも女性会員が活躍しています。桃の節句にちなんで、今回は「女性会員をウォッチング」してみます。

▼女性会員ナウ
 2011-2012年度ロースターによりますと、東日本区で約205人、西日本区には約285人の女性会員が在籍しています。“約”と書いたのは、ロースターでは性別は表していませんので、名前の印象や生年の未記載などで推測しました。全会員の割合にすると、それぞれ17.4%と16.7%です。
 女性だけのクラブ(大阪なかのしま、東京たんぽぽ)を除いて、会員数15人以上のクラブで、女性会員の割合がもっとも多いのは長野クラブ(東日本区・あずさ部)で、15人中8人の53.3%に達しています。東京センテニアルクラブ(東日本区・東新部)の45.5%(22人中10人)、滋賀蒲生野クラブ(西日本区・びわこ部)の43.5%(23人中10人)が続きます。
 逆に、女性会員が在籍していないクラブは、東日本区が66クラブ中13クラブ、西日本区は90クラブ中15クラブです。在籍しているクラブの中には、YMCAの女性の担当主事(西日本区では連絡主事)が一人だけ、というクラブも幾つか見られますので、実質的な女性ゼロクラブはもう少し多いと思われます。

▼日本区初の女性会員
 ワイズ国際協会で女性会員が認められたのは1974年です。ちなみに、同じ国際奉仕団体であるライオンズクラブは1987年、ロータリークラブは1989年ですから、ワイズはこれらの団体より10年以上も早かった訳です。
 女性の社会進出が増えて来たこと(日本では1972年に「男女雇用機会均等法」が制定)や、会員増強の思惑とが合致したからのことだと思いますが、元々家族的雰囲気が強かったワイズにおいては、女性会員の受け入れも早かったものと思われます。

 その1974年に日本区で第1号となる女性会員が誕生しました。広島クラブの天津美穂子(あまつ みほこ)さんです。日本で最初の女性会員がどんな方であったのか、興味がありましたので調べてみましたが、詳細は判りませんでした。
 判ったのは、夫の天津暢生(あまつ のぶお)さんが広島クラブの会員で、1970年〜72年同クラブの会計をされていたこと。しかしその後お亡くなりになったこと(1974年度の名簿には記載がないので、1973年に亡くなられたかも知れません)。推測ですが、ご主人亡き後、意志を継いで美穂子さんが会員になられたこと等です。しかし、在籍期間は短かったようで、1976年の名簿にはすでに見られませんでした。

▼増加する女性会員
 その後の女性会員の推移を見てみますと、1975年の柏クラブのチャーター時に二人は確認されていますが、この年には名簿が発行されなかったため、正確には把握されていません。
 1976-1978年度の会員名簿には、仙台・東京・柏・東京西・富山・大阪土佐堀・神戸西に記載され、18人になっています。東京西クラブのチャーター時(1976)には4人の女性会員の名前があり、富山クラブの6人とともに、女性会員の多いクラブでした。1979年の高崎クラブのチャーター時にも、6人の記録があります。
 以上は「日本ワイズメン運動70年史」によるものですが、1976年の埼玉クラブのチャーター記念誌に二人の女性会員の名前がありますので、上記の1976-1978年度の名簿の18人というのは、正確には20人ということでしょうか。
 その後も順調に増加し、1996年には300人を超えます。

▼活躍する女性会員
 女性会員といえども、当然のことながらクラブ内での役割を担う事になります。
 日本区で初の女性会長となったのは、1979年の阿部あき子さん(十勝)と安藤洋子さん(東京西)の二人です。
 阿部あき子さんは、十勝クラブの第3代の会長です。チャーターメンバーであるご主人の阿部哲也さんに誘われての入会と思われますが、在籍期間はそう長くありませんでした。
 しかし、その短い期間にあって、 『阿部さん夫妻は、十勝クラブの生みの親、育ての原動力で、十勝を全国に発信してくれたスーパーヒーロー的存在でした。あき子さんが作詞・作曲した十勝のクラブソング「草原に友を求めて」は今も例会で閉会前に全員で歌っています。』(池田正勝さん・十勝)

 安藤洋子さんについては、吉田明弘さん(東京西)に情報を頂きました。東京西クラブのチャーターメンバーで、同クラブの第4代会長です。東京YMCAのデザイン研究所で革工芸の教授をされていました。そんな関係でワイズへ誘われました。デザイン研究所がなくなったため、東京西クラブを去りました。1983年度の名簿が最後です。大柄でスラックス姿、フォルクスワーゲンを乗り回し、ワイズの中にはファンもいました。リーダーシップのある方で、そのままワイズを続けていたら、部長をされたのではないかとのことです。

 初代会長が女性というケースは、1981年の名古屋サウスクラブ・藤井和子さんが最初です。藤井さんは夫の藤井賢次さんとともにチャーターメンバーでしたから、そういう面でも最初だったと思います。
 その後、女性だけのクラブ、大阪なかのしま(1997)の杉浦眞喜子さんと、東京たんぽぽ(2002)の越智京子さんを除けば、女性の初代会長は現れませんでしたが、2010年に奇しくも東西日本区で同時に誕生しました。長野クラブ(東日本区・あずさ部)の水﨑よし子さんと京都ZEROクラブ(西日本区・京都部)の高倉英理さんです。

 やがて活躍の場は、クラブから部、区へと広がって行きます。
 最初の女性部長の誕生は、1994年度です。しかも一度に3人という快挙でした。菅原美穂子さん(中部・富山)、吉野美智子さん(京滋部・京都センチュリー)、俵口未加さん(九州部・博多オーシャン)です。当時の日本区は11の部でしたから、3割近い部が女性部長だったことになります。
 その年度の理事だった岡本尚男さん(京都キャピタル)に、その時の心境を伺ったところ、『部長職の重要性を、選出した「部」の皆さんがどれだけ認識しているのかと疑問に思いましたが、これこそ偏見そのものでした。男社会の偏見を打ち破り、性別による差別の愚かさを知りました。』と語っておられます。

 日本区が東西に分割された後の東日本区においては、以下のように女性部長が就任しています。(敬称略)
1997年 渡辺喜代美(北海道部/十勝)
1998年 越智京子(あずさ部/当時・東京山手)
2000年 元井逸子(湘南・沖縄部/横浜とつか)
2002年 御喜家みどり(湘南・沖縄部/鎌倉)
2007年 青木清子(関東東部/千葉)
2008年 中田千鶴(北海道部/札幌)
2011年 遠藤利枝子(冨士山部/富士宮)
 次年度は、佐藤節子さん(厚木)が湘南・沖縄部の部長に就任します。同部からは3人目の女性部長です。

 区の事業主任については、メネット事業主任以外の最初は、1996年のIBC事業主任、中村悦子さん(当時・姫路グローバル)です。1997年以降、東日本区においては、事業主任が国際担当と国内担当の二人制だったこともあり、女性が就任する機会はありませんでしたが、2004年から4人制に移行してからは、今年度までに、
2005 年 越智京子(ユース/東京たんぽぽ)
2010 年 吉田紘子(ユース/東京銀座)
2011年 長谷川あや子(地域奉仕/東京八王子)の3人が就任しています(敬称略)。次年度は、小山久恵さん(地域奉仕/東京サンライズ)と宮村智子さん(ユース/横浜つづき)の二人が内定しています。
 長谷川あや子さんは、2009年(原俊彦理事)に区の書記を務めていますが、日本区時代からも含めて、女性の区書記は初めてだと思います。
 区の会計には、2007年の藤江喜美子さん(東京たんぽぽ)と、2010年の佐藤茂美さん(東京)が就任しています。

▼女性理事の誕生
 トップリーダーである理事には、2007年に東日本区で越智京子さん(東京たんぽぽ)が就任したのが最初です。その翌年、西日本区で佐藤典子さん(熊本ジェーンズ)が就任しました。お二人の活躍は記憶に新しい所です。
 そして冒頭にも書きましたが、次々期東日本区理事に渡辺喜代美さんが就任します。渡辺さんは北海道部の部長の他、1999年に十勝で開催されたアジア地域大会の実行委員長も務められました。

▼舞台は国際へ
 “遠眼鏡”で世界をウォッチしてみますと、アジア地域では、2004年に長尾ひろみさん(当時・大阪土佐堀)が会長に就任しました。長尾さんは2002年に国際議員としての実績があります。事業主任では、中村悦子さんがクリスチャンエンファシス事業主任を2000〜2002年に亘って務められました。
 参考までに、最初の女性国際会長が誕生したのは、1990年、Rachelle Reegさん(アメリカ)でした。その後は候補者はいましたが、当選した女性会長はいません。ちなみに、Reegさんは昨年、バランタイン賞を受賞しました。

▼メネットのことなど
 同じ女性という視点から見ても、メネットの存在はワイズダムにおいて重要な位置を占めています。日本におけるメネット運動のあゆみについては、「日本ワイズメン運動70年史」と「東日本区10年の歩み」に詳述されていますので、ここでは触れません。
 視点を変えて、メネットからメンへ転身されたケースについての歴史を調べようとしましたが、女性会員第1号である、天津美穂子さん以降、そういうケースがどれくらいあったかを把握するのは困難でした。
 いずれにしても、それらのケースの理由として考えられるのは、
①メンである夫の遺志を継いでのこと
②ワイズ活動が楽しくなり、メネットではもの足りなくなったこと
③クラブの会員増強事情に押されてのこと
などが挙げられます。

 西日本区には「特別メネット会員」制度があります。西日本区のロースターの「ワイズ用語抜粋」の「特別メネット」には、『ワイズメンの夫人ではないが、各個クラブが入会を認めた女性』とあります。これだけを読むと、一般の女性会員と何ら変わらないと思えますが、その辺の事情を西日本区の会員の方に伺った所、女性会員が認められない時代に、メネット活動を強力に推進していたクラブが、夫の入会がないがクラブ活動に賛同する女性を、会費も低額で「特別メネット」として迎えたのが始まりだそうです。現在はメネット数には数えますが、会員数には含まれないそうです。

▼始まりは遊び心から
 1997年、日本で初の女性だけのクラブ「大阪なかのしまクラブ」が誕生しました。親クラブである、大阪センテニアルクラブには、さぞかし綿密な戦略と高い志があったものと思いましたから、初代会長になられた杉浦眞喜子さんに、その辺の事情を伺ったところ、意外な返事をいただきました。
 『エクステンションの話が出た時、「どうせするならよそと違ったことを!」という乗りで、たまたまセンテニアルの IBCである香港のボヒニアクラブが女性のみのクラブでしたので、そこからヒントを得ました。「なんで今ごろ女性だけ?」「時代に逆行しているのでは?」などという問 いには、「いろいろあってもいいのでは?」とかわしていました。』とのことで、それほど“高尚な”想いがあった訳ではないそうです。
 その5年後の2002年、今度は東日本区で「東京たんぽぽYサービスクラブ」が誕生しました。初代会長は越智京子さんです。チャーターナイトの式典後、両クラブのDBC締結式が執り行われました。
 その後、女性だけのクラブは生まれていませんが、1990年の滋賀蒲生野クラブは、チャーター時に夫婦が全員メンバーになった初めてのクラブです。
 2006年の“横浜つづき”は、“ワイズメン&ウィメンズクラブ”という名称にしました。これも夫婦のメンバーが多かったことからの命名です。

 国際レベルで女性クラブがどれくらいあるのか、国際本部の西村隆夫さんに尋ねた所、統計としてはとっていないが、およそ20クラブほどではないかとのことでした。“たんぽぽ”同様、花の名前を付けたクラブ名が多いようです。
 組織の名前に“メン=Men”と入っていると、カナダ、北米、南太平洋エリアでは、運動の展開が困難との意見が強くなっているとのことで、今後の課題の一つになるのではと思います。一方、ロシアでは“ワイズメンズクラブ”となっていても、女性だけのクラブが増えているそうです。

▼あとがき
 国際協会で女性会員が認められてから、日本区で初のクラブ会長が誕生したのは、わずか5年後でした。しかしその後、部長の誕生までには20年を要しました。その年度の理事を務められた岡本尚男さんは、『私の理事の時代が、まさに女性が表舞台に躍り出る前兆でした。男社会に対する決別を迫られた事は否めません。』と語っておられます。ちなみにその年のメネット主任が10月に急逝され、その後任を岡本さんが代行しました。
 西日本区では、現在も男性会員がメネット主任や部の主査を務めるケースがありますが、この時のことが起因しているのかなと、推測します。

 それからさらに13年後、日本で初の女性理事になった越智京子さんは、東日本区全クラブを表敬訪問されました。だいぶ前にその越智さんに、理事を終えた感想を伺ったことがありました。『日本初の女性理事ということで、国際でも注目された。従って猛勉強もした。国内外のワイズメンとの出会いは一生の財産になった。』

 女性は大好きですが、女性について書くことは苦手で、まして“ウォッチ”することなど、大それたことと思っています。非礼があったらどうかお許し下さい。
 最後に杉浦眞喜子さんと、越智京子さんの言葉を紹介します。
 『女性は「慎重」です。誘っても、なかなか入会に応じません。しかし、一旦決心すると「強い」です。「真面目」にしっかり、やらなければならないことをこなしていきます。』(杉浦さん)
 『たんぽぽは、見かけによらず、その根を地中1.5メートルもの深さにまで張っている。私たちもワイズの世界に、しっかりと根を張って、地道で着実な奉仕活動を進めて行きたい。』(越智さん=たんぽぽのチャーター記念誌より)
 女性の特性が、今一番求められているかも知れません。

▼予告とお願い
 次号以降は、「ワイズの旗をウォッチング」と「ワイズの歌をウォッチング」を予定しています。
 そこで、以下の情報を求めています。
①皆さんのクラブのバナーについて、“うちのクラブのバナーはこういう特徴があるよ”という情報をお寄せ下さい。例えば、大きさ、形、素材、デザインの由来等。出来れば画像もメール添付で送っていただければ助かります。
②皆さんのクラブ、部には、“クラブ歌、部歌”がありますか?(今号でも触れました、十勝の「草原に友を求めて」のような)
 あるいはなくても、例会で良く歌う歌がありますか? そして、どうしてその歌を歌うようになったのですか?
 以上の2点について、情報をお寄せ下さい。
 なお、発行時期は今の所未定です。情報の集まり具合を見て、ということになります。
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