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No.7 ワイズの歌をウォッチング [Y'sdom Watching]

 歌は、“旗”同様に、様々な団体・コミュニティにおいて集団の連帯を確認するツールの一つとして使われています。
 国歌・社歌・校歌・大会歌等々、ワイズメンズクラブにおいても例外ではありません。ワイズでは「ワイズソング」がその象徴として、各種会合の冒頭に歌われ、参加者の連帯を確認しています。
 ワイズソングについては、吉田明弘さんの「Historian’s View」のNo.24 で取り上げられていますので、ここではワイズソング以外の歌について触れてみたいと思います。

▼YMCAの歌
 例会やその他の会合で歌われる一番多い歌は、「YMCAの歌」ではないかと思います。
 「YMCAの歌」は、「Historian’s View」のNo.24でも触れられていますが、1980年代には3曲があったようです。
(1)「神と人とに その身をば」
作詞:桜井信行 作曲:津川主一1934年
(2)「若人の熱き祈りは」
作詞:淵田多穂理:作曲:津川主一1954年
(3)「新しい明日を」
作詞:小出博子 作曲:津川主一1983年
 それぞれ、記念の年に懸賞募集して決定したものですが、現在歌われているのは、「若人の熱き祈りは」です。日本YMCA同盟50周年の記念として募集したものです。採用された淵田多穂理は、「ワイズソング」の訳詞者でもありますが、熊本YMCAの初代主事として応募しました。その当時の様子を知る福島正さん(東京目黒)は『当時一部屋しかなかった熊本YMCAの狭い事務室で、推敲に推敲を重ねられる、熱気溢れるお姿を間近に拝見したことを覚えています。』と語っておられます。

 先に挙げた3つの「YMCAの歌」は、いずれも作曲は津川主一です。淵田の「若人の熱き祈りは」を選考したのも津川です。
 作曲家で牧師でもあった津川は、一方数々の名曲の訳詞も手掛けています。
「夢路より」 フォスター歌曲
「おおスザンナ」 フォスター歌曲
「赤いサラファン」 ロシア民謡
「ロンドンデリーの歌」 アイルランド民謡
 また、讃美歌103番「牧人ひつじを」、讃美歌第二編190番「み墓ふかく」などは彼の訳として讃美歌集などにその名が記されています。

 例会の開会時にワイズソング、閉会時にYMCAの歌、というケースが多いと思い、東日本区各クラブの例会プログラムをウォッチしてみました。
 各クラブのブリテンはワイズドットコムへのメールに添付されていたり、ホームページで公開されていたり、あるいは直接郵送していただいているものを合わせて45クラブほどが把握出来ましたが、例会のプログラムが記載されていないものが数クラブありました。
 結果は、YMCAの歌を歌っているのは6クラブに留まりました。東京・東京北・甲府・甲府21・富士五湖・長野です。東京、東京北以外は、あずさ部の4クラブですが、いずれも山梨YMCAに連なるクラブで、甲府クラブとその子クラブです。
 例会プログラムが掲載されている39クラブのうち、ワイズソングのみを歌っているのは、23クラブでした。

▼例会で歌う歌
 例会で歌う歌としてYMCAの歌以外で多いのは、「みんなで歌おう」や「楽しい歌」というコーナーを設け、季節に合わせた童謡や唱歌を歌っているケースで7クラブ (札幌・札幌北・東京目黒・東京まちだ・東京山手・東京たんぽぽ・熱海グローリー) ありました。これは閉会時の場合と、中間時とがあります。
 これらの歌がいつ頃から歌われるようになったのかは承知していませんが、そんなに古い話ではないように思います。かつて流行した歌声喫茶ブームのリバイバルとも捉えられます。
 東京たんぽぽクラブは、「ちょっとたのしい歌」というコーナーで、かつてのうたごえ運動から生まれた「たんぽぽ」(作詞:門倉訣・作曲:堀越学・編曲:奥田政夫)という歌を歌っています。
 松本クラブでは閉会歌に「今日の日はさようなら」を歌っています。ライオンズクラブの「また会う日まで」と同じようなものでしょうか。

▼クラブ愛唱歌いろいろ
 次に挙げられるのが「クラブ愛唱歌」とも言える種類の歌です。中でも文字通り、例会で「クラブソング」を歌っているのは、十勝と甲府です。
 十勝はチャーター後まもなく、当時のメネットだった阿部あき子さん(後に日本区で最初の女性会長にもなりました)が作詞・作曲した「草原に友を求めて」を閉会時に歌っています。
 『この大空に見つけた あなたとの 出会いを
  大切に みつめながら ともに 歩もうよ
  十勝ワイズメン 十勝ワイズメン
  この輪を ひろげよう
  十勝ワイズメン 十勝ワイズメン
  この心を たかめよう』
 以上が歌詞の1番です。3番まであり、十勝平野の澄み渡った空気が感じられる内容です。

 甲府はチャーター40周年(1990年)の記念事業としてクラブの歌を作ることになり、会員から歌詞を募集しました。秋山平(ひとし)さんの作品を採用し「甲府ワイズの歌」として制定しました。やはり閉会時にYMCAの歌と隔月で交互に歌っています。秋山さんは2年前現役会員のまま亡くなられましたが、告別式後の初七日法要の席で、甲府クラブのメンバーがこの「甲府ワイズの歌」を歌い秋山さんを送りました。
 『富士の嶺高く 夢のせて
 集える人と 肩組んで
 輝くわれら 明日の灯を
 求めて共に 歩み行く
  そーれ! 甲府ワイズの旗昇る』
 こちらも3番まであり、七五調の歌詞に合わせたテンポの良い曲調となっています。

 伊東クラブにもクラブソングがありますが、現在例会のプログラムを見ますと、歌ってはいないようです。富士山部歌を作った時の部歌制定委員長を務めた小島功一郎さんの作詞・作曲で、チャーター数年後の1980年初頭に作られました。 
  伊東クラブソング “愉快な仲間”
 『いつもワイワイ たのしいワイズメン 
  ”伊東クラブ“
  したしみ むつみ合って 共に伸びてゆく
  心ひとつに 合わせて 奉仕する 
 “伊東クラブ”
  あしたを になってくれる 若人の為に 
  遠きも 近きも みんなおいでよ
  世界は ひとつ “わ”を拡げてゆこう
  苦楽共に 分け合える 仲間同志 
 ”伊東クラブ“
  奉仕と人の和をもって“Y”につくそう』
 『歌い易い歌でしたが、いつの間にか歌わなくなってしまいました。現在のメンバーで知っているのは数人くらいです。』とは、同クラブの田辺寛司さん。

 かつて東京西クラブにもクラブソングがありました。チャーター(1976年)して3ヶ月後に出来たもので、黒人霊歌のグローリーハレルヤに、メンバーの辻村克己さんが詞をつけました。
 『グローリー グロリー ハレルヤ 
  グローリー グロリー ハレルヤ*
   * 繰り返し 
  東京の西にワイズメン 
  緑にあふれる杉並に
  若くて素敵なワイズメン 
  とても素敵なワイズメン』
 というものです。
 『当時はYMCAリーダーOBの20歳代のメンバーもいて、活動的でした。しかし、数年経つと、歌詞がなんとなく気恥しくなって歌わなくなり、最近のメンバーは、存在も知りません。いずれの日か、歌詞にふさわしいクラブを夢見ています。』とは同クラブの吉田明弘さんの弁です。

 東京江東クラブには“準クラブソング”とも言うべき「威風堂々」があります。これはE・エルダーの行進曲ですが、2005年の東日本区大会(甲府)の時に、その年度の理事を務められた藤井寛敏さんにエールを送る“応援歌”として、同クラブの寺尾紀昭さんが“作詞”し、メネットの池上知嘉子さん(音楽監督)の指導で作られました。同クラブの50周年記念例会でも歌われました。

▼キャンプソング
 クラブ愛唱歌で欠かせないのが、東京むかでの「キャンプソング群」。東京YMCAの野尻湖の夏休み長期少年キャンプのOBを中心として生まれたむかでクラブは、メンバーがソラで歌えるキャンプソングをいくつももっていました。
 中でも、同クラブのチャーターメンバー・富岡正男さんが作られた「トミソング」は、戦前から歌い継がれている歌の数々です。代表曲は、「美しい湖水よ」「ガチャガチャバンド」「がったごっとバスに乗って」などですが、下記ウェブサイトでトミソングのメロディーを聴くことができます。
http://www.tokyobunka.ac.jp/ngc/contents/tsmenu.html
 今、YMCAのキャンプで、クラシックなキャンプソング「遠き山に日は落ちて」とか「静かな湖畔の森のかげから」などは、ほとんど歌われていないそうですが、東京山手の浅羽俊一郎さんが主事時代に作ったキャンプソング「ズンゴロ節」は今も歌われています。

▼メネットソング
 東京クラブと東京八王子クラブのブリテンには、それぞれのメネット強調月にメネットの歌を歌うプログラムがありました。ロースターに「メネットのねがい」の楽譜が掲載されていますが、残念ながら私は一度も歌ったことはありません。
 「メネットのねがい」は、1984年に公募され、今井利子(かずこ)さん(大阪長野メネット)の作品が選ばれました。作曲は宮村治さん(東京武蔵野)です。「日本ワイズメン運動70年史」によれば、当時は
「メネットのねがいはひとつ」というタイトルでした。

▼ 部の歌
 東日本区7部のうち、「部歌」があるのは、北東部・東新部・富士山部です。
 北東部の部歌「われら北東部」は、北東部創立10周年を記念して、1978年に制定されました(現在の北東部とはクラブ構成が違います)。歌詞は部内で公募し、仙台クラブの金原道子メネットの作品が入選し、当時の北東部長・佐藤一男さん(東京)が補作、作曲は鈴木功男さん(東京)が担当しました。 
 『神のみ手にありて 光の道をあゆむ
  あふれる喜びを ともに分ちあおう
  われら北東部いざいざ進め
  Yの旗たかくあげ
  あふれる喜びを ともに分ちあおう』

 東新部も、東日本区のスタートと同時に発足した1997年に、部内から歌詞を公募しました。部歌選考委員会の選考により、その年度の部長を務められた持田二郎さん(東京)の作品が採用されました。作曲は作曲家・指揮者の玉木宏樹氏です。音楽プロデューサーの小川圭一さん(東京世田谷)の伝手で依頼しました。1998年の5月30日に発表されました。
 レコーディングの男声コーラスは、部内ののど自慢のメンバーが担当し、鈴木功男さんのスタジオで録音しました。
 『YとY’sが手をつなぎ
  世界平和の祈りを込めて
  共に働く喜びは
  ひとり一人が 青年のよう
  あさひが結ぶ 我等東新部』

 「富士山部の歌」は1985年、その年度の富士山部部長・藤井銀次郎さん(熱海グローリー)の呼びかけで「部歌制定委員会」が発足し制定されました。作詞は、中学校教論をしていた南武好さん(湯河原)、作曲は学生時代吹奏楽をやっていた青木克幸さん(沼津)、今でも例会の「みんなで歌おう」の伴奏を手懸ける藤間孝夫さん(熱海グローリー)をはじめ制定委員会のメンバー皆さんの手作りでした。合いの手の拍手は小島功一郎委員長(伊東)の発案でした。
 『本来は製作委員会ではなく、制定委員会でしたが、皆さん大変熱心な方たちで当初から自分達で部歌を作るべく活動をしたようです。』(湯河原クラブ・北村文雄さん談)
 『夢を追いつつ 気のいい友よ
  オーヤー ワイズの新しい仲間
  南へ北へ どこへでも
  それゆけ 我等の富士山部』

 かつての「南東部」にも「ワイズ南東部ソング」という部の歌がありました。1968年、現在の東日本区のエリアである東部が、北東部と南東部に分かれました。南東部には、東京の西南部、横浜、熱海、沼津クラブが属し、すぐに沖縄那覇クラブが加わりました。
 やがて390人のメンバーが属する部となりますが、悩みがありました。東京YMCAのブランチを応援する東京のクラブ、伝統がある横浜、50人を超えるメンバーを擁して、独自に地域奉仕を進める熱海クラブを筆頭とする現富士山部地域のクラブ、遠距離にある沖縄那覇のクラブ、とそれぞれのクラブ基盤、方向性もひとつではなかったのです。その違いを認めつつ結んだのが、南東部ソング「いつでも、笑顔と握手」です。
 歌が出来た時期は不明ですが、作詞者の野本寛さん(熱海)が退会した時期を考えると、70年代前半までの間かと思われます。作曲は「メネットのねがい」と同じ宮村治さんです。
 『いつでも どこでも 笑顔と握手
  ヤァヤァ ワイズの よき友仲間
  強くてかたい 心のきずな
  ワィワィワイズは 世界の南東部』
というものでした。

▼幻の歌?
 「日本ワイズメン運動70年史」を読んでいましたら、1990-91年度の日本区役員会で、「みんなの新しい歌募集は継続審議とする。」という記述がありました。ワイズソングとは別の歌を制定しようという提案があったのでしょうか。
 どんな経緯があり、結果はどうなったのか、興味がありましたので、調べてみましたが、当時の区報や役員会議事録には記載されていませんでした。その年度の役員をされた方にもお聞きしましたが、『「ワイズソング」とは別に、もっと軽快な愛唱曲が欲しいという声を聞いたことはあるように思いますが、日本区役員会の議題に取り上げられていたとは、、、』ということですから、おそらくそれほど大きな話題にはならなかったのかも知れません。
 まさに、“幻の歌”とも言えます。

▼熱海国際大会の歌
 1975年、熱海で開催された国際大会のために、「Konnichiwa ‘75」という歌が作られました。
 作詞・作曲は鈴木功男さん(東京)です。
 この大会の国際会長、鈴木謙介(当時東京)の国際会長主題「Encounter on the Y’sMen’s Road」(ワイズメン途上の出会い)に沿ったものです。もう一つ、佐藤邦明さん(東京むかで)が作詞したものもあるそうです。

 ワイズメンは、気軽に替え歌を作って歌いました。代表して、ジョ-ダン・トリイの名で様々な文を残した元日本区理事・鳥居一良(名古屋)の「およげたいやきくん」の替え歌「ワイズメン途上の出会い」は、下記のようなものでした。

 『毎日毎日 僕らは仕事の
  山に追われて いやになっちゃうよ
  ある晩僕は 店がすんでから
  おおいそぎ Yへやってきたのさ
  はじめて 出会った ワイズメン
  とっても気持ちが いいもんだ
  出てきたお顔は いろいろで
  心は はればれ 話がはずむ
  ワイズのみんなが 手を振って
  僕の参加を よろこんだ』

▼CS事業と歌
 例会などの会合以外に、ワイズのCS(地域奉仕)事業に歌が関係しているケースが幾つかあります。
 2011年6月に解散した高崎クラブは、毎年クリスマスの時期に「高崎市民クリスマス」という事業を20年近く実施しました。市内のコーラスグループや教会の聖歌隊、幼稚園児や大学のコーラス部などが市庁舎のホールを会場にクリスマスソングを歌うプログラムでした。
 東京世田谷クラブや東京たんぽぽクラブは、地域のお年寄りを対象にした「歌声サロン」を展開しています。子どもの頃に歌った、童謡や文部省歌などを皆で歌うプログラムです。
 2年前の東日本大震災後、被災地へ“出前”していることはご存知と思います。
 この他、札幌の「時計台コンサート」、東京八王子の「地雷廃絶チャリティーコンサート」、東京たんぽぽ・東京セントラルの「Libyチャリティーコンサート」などがあります。

▼あとがき
 毎年、東日本区大会のオープニングで、「ワイズソング」を歌う時、“武者震い”というか、胸が熱くなるのを覚えます。大会という適度な緊張感と、ホストクラブのご苦労や、また一年間共に活動して来た仲間との連帯を想ってのことからでしょう。
“歌は世に連れ、世は歌に連れ”と言いますが、ワイズの世界も例外ではないかも知れません。
 私の所属する甲府クラブでは、3年ほど前までは例会で讃美歌を歌っていました。ワイズソング、YMCAの歌(隔月で甲府ワイズの歌)、讃美歌と3つの歌を歌っていたことになります。クリスチャニティーの問題や、セレモニーが重くなる等の理由で、讃美歌はやめたらどうかと、クラブ内で議論がありました。
 結局、東日本区内の他クラブを見ても、讃美歌を歌っているクラブはない、ということもあり、歌わない事になりました。
 今回の調査で、YMCAの歌も5クラブでしか歌われていないことに驚きました。これも時代の流れでしょうか。
 そうだとすれば、ワイズメンズクラブの変遷を“歌”からも読み取ることが出来るような気がします。



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