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No.7 ワイズの歌をウォッチング [Y'sdom Watching]

 歌は、“旗”同様に、様々な団体・コミュニティにおいて集団の連帯を確認するツールの一つとして使われています。
 国歌・社歌・校歌・大会歌等々、ワイズメンズクラブにおいても例外ではありません。ワイズでは「ワイズソング」がその象徴として、各種会合の冒頭に歌われ、参加者の連帯を確認しています。
 ワイズソングについては、吉田明弘さんの「Historian’s View」のNo.24 で取り上げられていますので、ここではワイズソング以外の歌について触れてみたいと思います。

▼YMCAの歌
 例会やその他の会合で歌われる一番多い歌は、「YMCAの歌」ではないかと思います。
 「YMCAの歌」は、「Historian’s View」のNo.24でも触れられていますが、1980年代には3曲があったようです。
(1)「神と人とに その身をば」
作詞:桜井信行 作曲:津川主一1934年
(2)「若人の熱き祈りは」
作詞:淵田多穂理:作曲:津川主一1954年
(3)「新しい明日を」
作詞:小出博子 作曲:津川主一1983年
 それぞれ、記念の年に懸賞募集して決定したものですが、現在歌われているのは、「若人の熱き祈りは」です。日本YMCA同盟50周年の記念として募集したものです。採用された淵田多穂理は、「ワイズソング」の訳詞者でもありますが、熊本YMCAの初代主事として応募しました。その当時の様子を知る福島正さん(東京目黒)は『当時一部屋しかなかった熊本YMCAの狭い事務室で、推敲に推敲を重ねられる、熱気溢れるお姿を間近に拝見したことを覚えています。』と語っておられます。

 先に挙げた3つの「YMCAの歌」は、いずれも作曲は津川主一です。淵田の「若人の熱き祈りは」を選考したのも津川です。
 作曲家で牧師でもあった津川は、一方数々の名曲の訳詞も手掛けています。
「夢路より」 フォスター歌曲
「おおスザンナ」 フォスター歌曲
「赤いサラファン」 ロシア民謡
「ロンドンデリーの歌」 アイルランド民謡
 また、讃美歌103番「牧人ひつじを」、讃美歌第二編190番「み墓ふかく」などは彼の訳として讃美歌集などにその名が記されています。

 例会の開会時にワイズソング、閉会時にYMCAの歌、というケースが多いと思い、東日本区各クラブの例会プログラムをウォッチしてみました。
 各クラブのブリテンはワイズドットコムへのメールに添付されていたり、ホームページで公開されていたり、あるいは直接郵送していただいているものを合わせて45クラブほどが把握出来ましたが、例会のプログラムが記載されていないものが数クラブありました。
 結果は、YMCAの歌を歌っているのは6クラブに留まりました。東京・東京北・甲府・甲府21・富士五湖・長野です。東京、東京北以外は、あずさ部の4クラブですが、いずれも山梨YMCAに連なるクラブで、甲府クラブとその子クラブです。
 例会プログラムが掲載されている39クラブのうち、ワイズソングのみを歌っているのは、23クラブでした。

▼例会で歌う歌
 例会で歌う歌としてYMCAの歌以外で多いのは、「みんなで歌おう」や「楽しい歌」というコーナーを設け、季節に合わせた童謡や唱歌を歌っているケースで7クラブ (札幌・札幌北・東京目黒・東京まちだ・東京山手・東京たんぽぽ・熱海グローリー) ありました。これは閉会時の場合と、中間時とがあります。
 これらの歌がいつ頃から歌われるようになったのかは承知していませんが、そんなに古い話ではないように思います。かつて流行した歌声喫茶ブームのリバイバルとも捉えられます。
 東京たんぽぽクラブは、「ちょっとたのしい歌」というコーナーで、かつてのうたごえ運動から生まれた「たんぽぽ」(作詞:門倉訣・作曲:堀越学・編曲:奥田政夫)という歌を歌っています。
 松本クラブでは閉会歌に「今日の日はさようなら」を歌っています。ライオンズクラブの「また会う日まで」と同じようなものでしょうか。

▼クラブ愛唱歌いろいろ
 次に挙げられるのが「クラブ愛唱歌」とも言える種類の歌です。中でも文字通り、例会で「クラブソング」を歌っているのは、十勝と甲府です。
 十勝はチャーター後まもなく、当時のメネットだった阿部あき子さん(後に日本区で最初の女性会長にもなりました)が作詞・作曲した「草原に友を求めて」を閉会時に歌っています。
 『この大空に見つけた あなたとの 出会いを
  大切に みつめながら ともに 歩もうよ
  十勝ワイズメン 十勝ワイズメン
  この輪を ひろげよう
  十勝ワイズメン 十勝ワイズメン
  この心を たかめよう』
 以上が歌詞の1番です。3番まであり、十勝平野の澄み渡った空気が感じられる内容です。

 甲府はチャーター40周年(1990年)の記念事業としてクラブの歌を作ることになり、会員から歌詞を募集しました。秋山平(ひとし)さんの作品を採用し「甲府ワイズの歌」として制定しました。やはり閉会時にYMCAの歌と隔月で交互に歌っています。秋山さんは2年前現役会員のまま亡くなられましたが、告別式後の初七日法要の席で、甲府クラブのメンバーがこの「甲府ワイズの歌」を歌い秋山さんを送りました。
 『富士の嶺高く 夢のせて
 集える人と 肩組んで
 輝くわれら 明日の灯を
 求めて共に 歩み行く
  そーれ! 甲府ワイズの旗昇る』
 こちらも3番まであり、七五調の歌詞に合わせたテンポの良い曲調となっています。

 伊東クラブにもクラブソングがありますが、現在例会のプログラムを見ますと、歌ってはいないようです。富士山部歌を作った時の部歌制定委員長を務めた小島功一郎さんの作詞・作曲で、チャーター数年後の1980年初頭に作られました。 
  伊東クラブソング “愉快な仲間”
 『いつもワイワイ たのしいワイズメン 
  ”伊東クラブ“
  したしみ むつみ合って 共に伸びてゆく
  心ひとつに 合わせて 奉仕する 
 “伊東クラブ”
  あしたを になってくれる 若人の為に 
  遠きも 近きも みんなおいでよ
  世界は ひとつ “わ”を拡げてゆこう
  苦楽共に 分け合える 仲間同志 
 ”伊東クラブ“
  奉仕と人の和をもって“Y”につくそう』
 『歌い易い歌でしたが、いつの間にか歌わなくなってしまいました。現在のメンバーで知っているのは数人くらいです。』とは、同クラブの田辺寛司さん。

 かつて東京西クラブにもクラブソングがありました。チャーター(1976年)して3ヶ月後に出来たもので、黒人霊歌のグローリーハレルヤに、メンバーの辻村克己さんが詞をつけました。
 『グローリー グロリー ハレルヤ 
  グローリー グロリー ハレルヤ*
   * 繰り返し 
  東京の西にワイズメン 
  緑にあふれる杉並に
  若くて素敵なワイズメン 
  とても素敵なワイズメン』
 というものです。
 『当時はYMCAリーダーOBの20歳代のメンバーもいて、活動的でした。しかし、数年経つと、歌詞がなんとなく気恥しくなって歌わなくなり、最近のメンバーは、存在も知りません。いずれの日か、歌詞にふさわしいクラブを夢見ています。』とは同クラブの吉田明弘さんの弁です。

 東京江東クラブには“準クラブソング”とも言うべき「威風堂々」があります。これはE・エルダーの行進曲ですが、2005年の東日本区大会(甲府)の時に、その年度の理事を務められた藤井寛敏さんにエールを送る“応援歌”として、同クラブの寺尾紀昭さんが“作詞”し、メネットの池上知嘉子さん(音楽監督)の指導で作られました。同クラブの50周年記念例会でも歌われました。

▼キャンプソング
 クラブ愛唱歌で欠かせないのが、東京むかでの「キャンプソング群」。東京YMCAの野尻湖の夏休み長期少年キャンプのOBを中心として生まれたむかでクラブは、メンバーがソラで歌えるキャンプソングをいくつももっていました。
 中でも、同クラブのチャーターメンバー・富岡正男さんが作られた「トミソング」は、戦前から歌い継がれている歌の数々です。代表曲は、「美しい湖水よ」「ガチャガチャバンド」「がったごっとバスに乗って」などですが、下記ウェブサイトでトミソングのメロディーを聴くことができます。
http://www.tokyobunka.ac.jp/ngc/contents/tsmenu.html
 今、YMCAのキャンプで、クラシックなキャンプソング「遠き山に日は落ちて」とか「静かな湖畔の森のかげから」などは、ほとんど歌われていないそうですが、東京山手の浅羽俊一郎さんが主事時代に作ったキャンプソング「ズンゴロ節」は今も歌われています。

▼メネットソング
 東京クラブと東京八王子クラブのブリテンには、それぞれのメネット強調月にメネットの歌を歌うプログラムがありました。ロースターに「メネットのねがい」の楽譜が掲載されていますが、残念ながら私は一度も歌ったことはありません。
 「メネットのねがい」は、1984年に公募され、今井利子(かずこ)さん(大阪長野メネット)の作品が選ばれました。作曲は宮村治さん(東京武蔵野)です。「日本ワイズメン運動70年史」によれば、当時は
「メネットのねがいはひとつ」というタイトルでした。

▼ 部の歌
 東日本区7部のうち、「部歌」があるのは、北東部・東新部・富士山部です。
 北東部の部歌「われら北東部」は、北東部創立10周年を記念して、1978年に制定されました(現在の北東部とはクラブ構成が違います)。歌詞は部内で公募し、仙台クラブの金原道子メネットの作品が入選し、当時の北東部長・佐藤一男さん(東京)が補作、作曲は鈴木功男さん(東京)が担当しました。 
 『神のみ手にありて 光の道をあゆむ
  あふれる喜びを ともに分ちあおう
  われら北東部いざいざ進め
  Yの旗たかくあげ
  あふれる喜びを ともに分ちあおう』

 東新部も、東日本区のスタートと同時に発足した1997年に、部内から歌詞を公募しました。部歌選考委員会の選考により、その年度の部長を務められた持田二郎さん(東京)の作品が採用されました。作曲は作曲家・指揮者の玉木宏樹氏です。音楽プロデューサーの小川圭一さん(東京世田谷)の伝手で依頼しました。1998年の5月30日に発表されました。
 レコーディングの男声コーラスは、部内ののど自慢のメンバーが担当し、鈴木功男さんのスタジオで録音しました。
 『YとY’sが手をつなぎ
  世界平和の祈りを込めて
  共に働く喜びは
  ひとり一人が 青年のよう
  あさひが結ぶ 我等東新部』

 「富士山部の歌」は1985年、その年度の富士山部部長・藤井銀次郎さん(熱海グローリー)の呼びかけで「部歌制定委員会」が発足し制定されました。作詞は、中学校教論をしていた南武好さん(湯河原)、作曲は学生時代吹奏楽をやっていた青木克幸さん(沼津)、今でも例会の「みんなで歌おう」の伴奏を手懸ける藤間孝夫さん(熱海グローリー)をはじめ制定委員会のメンバー皆さんの手作りでした。合いの手の拍手は小島功一郎委員長(伊東)の発案でした。
 『本来は製作委員会ではなく、制定委員会でしたが、皆さん大変熱心な方たちで当初から自分達で部歌を作るべく活動をしたようです。』(湯河原クラブ・北村文雄さん談)
 『夢を追いつつ 気のいい友よ
  オーヤー ワイズの新しい仲間
  南へ北へ どこへでも
  それゆけ 我等の富士山部』

 かつての「南東部」にも「ワイズ南東部ソング」という部の歌がありました。1968年、現在の東日本区のエリアである東部が、北東部と南東部に分かれました。南東部には、東京の西南部、横浜、熱海、沼津クラブが属し、すぐに沖縄那覇クラブが加わりました。
 やがて390人のメンバーが属する部となりますが、悩みがありました。東京YMCAのブランチを応援する東京のクラブ、伝統がある横浜、50人を超えるメンバーを擁して、独自に地域奉仕を進める熱海クラブを筆頭とする現富士山部地域のクラブ、遠距離にある沖縄那覇のクラブ、とそれぞれのクラブ基盤、方向性もひとつではなかったのです。その違いを認めつつ結んだのが、南東部ソング「いつでも、笑顔と握手」です。
 歌が出来た時期は不明ですが、作詞者の野本寛さん(熱海)が退会した時期を考えると、70年代前半までの間かと思われます。作曲は「メネットのねがい」と同じ宮村治さんです。
 『いつでも どこでも 笑顔と握手
  ヤァヤァ ワイズの よき友仲間
  強くてかたい 心のきずな
  ワィワィワイズは 世界の南東部』
というものでした。

▼幻の歌?
 「日本ワイズメン運動70年史」を読んでいましたら、1990-91年度の日本区役員会で、「みんなの新しい歌募集は継続審議とする。」という記述がありました。ワイズソングとは別の歌を制定しようという提案があったのでしょうか。
 どんな経緯があり、結果はどうなったのか、興味がありましたので、調べてみましたが、当時の区報や役員会議事録には記載されていませんでした。その年度の役員をされた方にもお聞きしましたが、『「ワイズソング」とは別に、もっと軽快な愛唱曲が欲しいという声を聞いたことはあるように思いますが、日本区役員会の議題に取り上げられていたとは、、、』ということですから、おそらくそれほど大きな話題にはならなかったのかも知れません。
 まさに、“幻の歌”とも言えます。

▼熱海国際大会の歌
 1975年、熱海で開催された国際大会のために、「Konnichiwa ‘75」という歌が作られました。
 作詞・作曲は鈴木功男さん(東京)です。
 この大会の国際会長、鈴木謙介(当時東京)の国際会長主題「Encounter on the Y’sMen’s Road」(ワイズメン途上の出会い)に沿ったものです。もう一つ、佐藤邦明さん(東京むかで)が作詞したものもあるそうです。

 ワイズメンは、気軽に替え歌を作って歌いました。代表して、ジョ-ダン・トリイの名で様々な文を残した元日本区理事・鳥居一良(名古屋)の「およげたいやきくん」の替え歌「ワイズメン途上の出会い」は、下記のようなものでした。

 『毎日毎日 僕らは仕事の
  山に追われて いやになっちゃうよ
  ある晩僕は 店がすんでから
  おおいそぎ Yへやってきたのさ
  はじめて 出会った ワイズメン
  とっても気持ちが いいもんだ
  出てきたお顔は いろいろで
  心は はればれ 話がはずむ
  ワイズのみんなが 手を振って
  僕の参加を よろこんだ』

▼CS事業と歌
 例会などの会合以外に、ワイズのCS(地域奉仕)事業に歌が関係しているケースが幾つかあります。
 2011年6月に解散した高崎クラブは、毎年クリスマスの時期に「高崎市民クリスマス」という事業を20年近く実施しました。市内のコーラスグループや教会の聖歌隊、幼稚園児や大学のコーラス部などが市庁舎のホールを会場にクリスマスソングを歌うプログラムでした。
 東京世田谷クラブや東京たんぽぽクラブは、地域のお年寄りを対象にした「歌声サロン」を展開しています。子どもの頃に歌った、童謡や文部省歌などを皆で歌うプログラムです。
 2年前の東日本大震災後、被災地へ“出前”していることはご存知と思います。
 この他、札幌の「時計台コンサート」、東京八王子の「地雷廃絶チャリティーコンサート」、東京たんぽぽ・東京セントラルの「Libyチャリティーコンサート」などがあります。

▼あとがき
 毎年、東日本区大会のオープニングで、「ワイズソング」を歌う時、“武者震い”というか、胸が熱くなるのを覚えます。大会という適度な緊張感と、ホストクラブのご苦労や、また一年間共に活動して来た仲間との連帯を想ってのことからでしょう。
“歌は世に連れ、世は歌に連れ”と言いますが、ワイズの世界も例外ではないかも知れません。
 私の所属する甲府クラブでは、3年ほど前までは例会で讃美歌を歌っていました。ワイズソング、YMCAの歌(隔月で甲府ワイズの歌)、讃美歌と3つの歌を歌っていたことになります。クリスチャニティーの問題や、セレモニーが重くなる等の理由で、讃美歌はやめたらどうかと、クラブ内で議論がありました。
 結局、東日本区内の他クラブを見ても、讃美歌を歌っているクラブはない、ということもあり、歌わない事になりました。
 今回の調査で、YMCAの歌も5クラブでしか歌われていないことに驚きました。これも時代の流れでしょうか。
 そうだとすれば、ワイズメンズクラブの変遷を“歌”からも読み取ることが出来るような気がします。



No.6 ワイズのITをウォッチング [Y'sdom Watching]

 ワイズ東日本区におけるIT(Information Technology=情報技術)の始まりは、1996年4月、東京目黒クラブのブリテンに「今月号からパソコン通信でブリテンの編集を始める」と書かれていることから、これを嚆矢と見ることができる(「東日本区10年の歩み」より)ようです。

▼viva-ysmen
 1997年7月、当時東京八王子クラブのメンバーだった奈良昭彦さんが、「viva-ysmen」というメーリングリストを個人契約で立ち上げ、東西日本区の情報交換の場を提供しました。開始当初の登録者数は如何ほどだったのか知りませんが、私がインターネットを始めたのが1999年(viva-ysmenへの加入も同年)ですから、ワイズの皆さんはやはり先進的と言えます。
 その「viva-ysmen」は、区の“公式”ではなかったことからか、結構自由闊達な情報の交換がされていたように思います。当時、入会数年目で、他クラブのメンバーとの面識も少なかった私にとっては、インターネット上でのコミュニケーションはワイズの広がりを知る事ができ、楽しいものでした。箱根駅伝予想(ファンド事業関連)や“ワイズいろはかるた”と言った、ちょっと脱線気味のお遊びもありましたが、それも堅苦しくなくて良かったと思います。
 その「viva-ysmen」もインターネット環境の変化で8年後に閉じられました。メールの投稿数は8年間で約6,000通だったそうです。

▼東日本区のメーリングリスト
 東日本区の公式なメールネットワークは、2001年10月からスタートしました。現在は19のグループと、「viva-ysmen」の後継とも言える「ワイズドットコム」があります。
 19のグループは、クラブ会長、各部別、各事業別、区役員、常任役員等々に細かく分かれています。
 一方「ワイズドットコム」は、かつての「viva-ysmen」のような集まりがほしいという声に応えて、2007年5月から始まりました。現在の登録者数は550名ほどです。このうち西日本区からは90名ほどですから、東日本区のメンバーはおよそ460名となり、東日本区全会員の約4割が登録していることになります。
 投稿メールの種類は、ブリテン発行の告知、例会や周年行事の案内、東日本大震災関連などで占められ、「viva-ysmen」の時のような、もう少し広がりを持った情報や、それに対する反応メールはごく稀です。
 ちなみに今年3月15日から4月14日までの1ヶ月間を見てみますと、56通(重複メールや訂正メールは除く)のうち、35通がブリテンの告知でした。6割強ということになります。その他、震災本部からのものが5、東日本区大会関連が4、周年行事、例会、その他の集会の案内・募集が8等となっています。
 ほとんどのクラブでもクラブ内の情報伝達ツールとしてメーリングリストを活用していると思います。私の所属する甲府クラブでは、会員39人のうち32人とYMCAの主事、やむを得ぬ事情で退会した元会員などが登録しています。2002年4月から始まり、通算3,800通のメールが投稿されてきました。

▼東日本区各クラブのHP
 東日本区のホームページ(正しくはウェブサイトと言うようですが、ここでは以下HPとします)のリンクページに、東日本区内のクラブのHPが一覧になってリンクが設定されています。これを見ますと東日本区65クラブ中22クラブがHPを持っています。
 4月中旬のある日、この22クラブのHPに片っ端からアクセスしてみました。
 HPの維持管理というのは、自分でも経験しているので、その大変さは十分承知しています。果たして各クラブがどれほど最新情報を発信しているか興味がありました。
 結果は、驚いた事に「Not found」、つまりHPがすでに見当たらないクラブが5クラブもありました。また、更新の日付(時期)が不明なものや、2008-2009年度のもの、2010-2011年度と数年前のままで更新が滞っているクラブもありました。
 4月中旬の時点で、それ以前1ヶ月(つまり3月)くらいまでに更新されているのは10クラブほどでした。
 HPをせっかく作ってもその維持が如何に大変なことかを如実に物語っています。
 ちなみに西日本区は87クラブ中78クラブがHPを開設しています(更新状況などは把握していません)。さらに、SNS(Social Networking Service)の代表格とも言えるFacebook(フェイスブック)を利用しているクラブが17あります。

▼HPの中身
 そのHPの中身はどうなっているのか、つまり、どのような情報を発信しているのかをウォッチしてみました。
 ワイズにおいてHPに掲載する情報には次のようなものが考えられます。
1.自クラブの紹介(ワイズメンズクラブの説明も含めて)
2.活動紹介
3.会長方針や主題
4.行事予定
5.問い合わせ窓口
6.ブリテン(会報)
 これらを頭に入れて、現在ウェブ上に存在する17クラブのHPを見てみますと、1のワイズの紹介があるのは8クラブと約半数でした。2の活動紹介は6クラブ、3の会長方針や主題は11クラブ、4の行事予定(例会案内のみも含む)は8クラブ、5の問い合わせ窓口(メール等)があるのは8クラブ、6のブリテンについてはダウンロードする形式と、HP用に編集されたものとがありますが、10クラブでした。ブリテンは個人情報が多く含まれている事から、HPで公開する場合は配慮が必要です。
 これらは先にも書きましたが、途中で更新が止まったままのクラブもありますので、現時点での数字は、さらに低い事になります。
 この他、英語版のページを設けているクラブが3クラブありました。IBCとのコミュニケーションに有効でしょう。
 質量ともに充実しているのは、宇都宮クラブと東京クラブです。特に宇都宮クラブにはIBC先のクラブのブリテンや「クラブの歴史」「栃木の隠れキリシタン」といった話題まであり、読み応え充分です。
 東京クラブはパスワードを入れないと詳細ページにアクセスできない仕組みになっていますが、過去のクラブの資料などのストックヤードの機能も持たせているようです。
 東京八王子クラブは、いわゆる「ブログ形式」で、会員誰でも参加することが出来ます。

▼情報の共有≠意識の共有
 現在、東日本区の情報伝達のメディアとしては、区報、理事通信、メーリングリスト、HPがあります。区報(部報も含む)、理事通信(事業主任通信も含む)、メーリングリストは内部向け、HPは当然のことながら内部のみならず、広く外部にも情報発信しています。
 区報は年 3回、理事通信は月1回の発行で、内容も定型化しています。旬の情報をタイムリーに発信できるのは、ITを活用したツールが有力となります。
 しかし、前述したように、現在「ワイズドットコム」に登録している会員は約4割です。残りの6割のメンバーは、“情報格差”のもとに置かれる可能性があります。これはワイズに限ったことではありません。この“格差”を解消するとなると、きめ細かな手立てが必要になり、効率を求めた結果が却って事務量を増やすというジレンマに陥ります。
 ITが活発に利用されればされるほど、気をつけなければならないことがあります。「情報の共有」という言葉が良く使われます。確かに、伝えたい事をメールでメーリングリストに流せば、瞬時に何百人もの人に伝わります。いわゆる「情報の共有」です。しかしそれは必ずしも、その情報を受け取った人の意識が共有されたことには繋がりません。
 発信される情報の内容と受け手の属性によっては、重要な情報も有効に伝わらない、つまり意識が共有されないという現象が起こり得ます。TPOを考えた情報発信を心掛ける必要があります。

▼あとがき
 過日開催された東日本区役員会で、「広報・伝達(PR)専任委員」の新設が承認されました。ワイズの情報を東日本区内外にタイムリーに伝達することが任務です。ただし文書による伝達は含まれません。東日本区では、HPの維持管理をITアドバイザーが担っていますので、PR専任委員はITアドバイザーへの橋渡し役といったところです。
 このPR専任委員の機能が十分発揮され、東日本区の情報伝達がスムーズに行われる事を願っています。

No.5 ワイズのファンドをウォッチング [Y'sdom Watching]

▼ファンド事業あれこれ
 毎年この季節になりますと、北海道十勝平野から、じゃがいもが届くのが待ち遠しい人もおられる事と思います。ご存知十勝クラブの「じゃがいもファンド」です。そんなことで、今回は「ファンド」についてウォッチしてみました。
 現在、東日本区内で物品を販売し、その収益で何らかの事業活動(いわゆるファンド事業)を行っているクラブは、私の知る範囲では以下の通りです。(十勝のじゃがいもを仕入れて販売している例は除く)
北見クラブ…サーモン
十勝クラブ…じゃがいも・かぼちゃ
もりおかクラブ…りんご・わかしお石けん
川越クラブ…さつま芋(紅あか)
所沢クラブ…狭山茶
東京クラブ…甲州ワイン
東京コスモスクラブ…はちみつ
東京たんぽぽクラブ…梨
東京八王子クラブ…山野草
松本クラブ…土佐文旦
沼津クラブ…アジの干物
 (以前、東京世田谷クラブで「日光の湯葉」、御殿場クラブで「緑茶」を扱っていましたが、現在は休止しています)
 これを見るとほとんどが食品で、その地域の特産品です。ワイズの扱う食品だけで我が家の食卓を満たしてくれそうです。
 松本クラブの「土佐文旦」は、メネットの出身が高知で、文旦農家と縁がある関係からです。
 川越クラブの「紅あか」は、亡くなられた工藤徹さんが、かつてワイズのメーリングリストで毎年正月に話題になった、箱根駅伝の順位予想の景品として提供されていたことを思い出します。工藤さんの“営業活動”の一環でした。
 もりおかクラブの「わかしお石けん」は、岩手県の漁業協同組合で販売している洗濯石けんで、天然の成分だけで作られているため、川や海を汚さないエコ石けんです。
 これらの販売で得られた益金は、各クラブのCS(地域奉仕)やYMCAサービス、ユース活動等に使われています。
 私が所属するあずさ部を例にとると、松本クラブでは、アジアからの私費留学生を支援する「アジア賞作文コンクール」の資金に、東京たんぽぽクラブは、東京YMCAのLiby(居場所のない子どもたちの支援プログラム)をサポートするために、東京八王子クラブでは桜草や鷺草などの山野草を、「フラワーファンド」という名称で、地元の中央大学の学Y生とのプログラムに活用しています。
 西日本区のクラブでも多様なファンド事業が展開されていると思いますが、詳細は承知していません。京都キャピタルクラブのブリテンを見ましたら、「大山ハム」「ネクタイ」「パン」などというファンドの項目がありました。

▼原点はじゃがいも
 これらのファンド事業の原点は、十勝クラブのじゃがいもでしょう。
 「じゃがいもファンド」は1977年の同クラブのチャーター時から始まっています。初代会長の林育雄さんは、元々は京都パレスクラブに在籍していましたが、1974年に、夫人の実家がある十勝の本別町に転居して、北見クラブに移りました。その後、十勝に新しいクラブを作ろうという機運が盛り上がった時に、じゃがいもの販売を思いつき、全国のワイズに呼びかけました。
 『5トンコンテナに、10キロ詰めのじゃがいもが500袋から550袋入ります。1袋520円から550円程度でお渡しするので、YMCAのバザーなどでお売り下さい。1袋900円で売れば、10万円前後を働き出せます』という呼びかけに、広島、京都パレス、大阪河内、札幌の各クラブから注文がありました。

 その時の京都パレスクラブの会長だった岡本尚男さん(現・京都キャピタル)は、『自分たちのファンド事業にもして、CS活動やYMCAのためになる働きをしよう。そのことが林君を勇気づけ、十勝クラブ設立の役にたつのならばという、一石二鳥のアイディアが出て、実行しました』と述べられています。(十勝クラブ30周年記念例会講演)
 翌年(1978年)、その京都パレスクラブがホストした日本区大会のステージ上で呼びかけたところ、18クラブ、2YMCAへ合計104.6トンを販売しました。
 その後、引き取りクラブ数と販売量は拡大し、2012年6月現在、東日本区22クラブ、西日本区50クラブ、6YMCA、2教会が、「ポテト&パンプキンファンクラブ」になっています。
 しかし、今日まですべてが順調に推移した訳ではありません。その紆余曲折は「北海道YMCA百年史」に詳述されていますが、北の大地でたくましくワイズ活動を続けている十勝クラブだからこそ、乗り越えて来られたのでしょう。

 十勝のじゃがいもファンドをウォッチして感じたことが幾つかあります。
 まず、“よそ者”の発想。初代会長の林さんは道産子ではありません。外からの視点が、地元の人には気づかない発想を生み出すことは度々あります。
十勝ジャガイb.jpg

 次に、この事業がスタートした当初は、十勝クラブの会員自らが汗を流し、作業をしたということです。これこそ、ワイズにおけるファンド事業の原点だと思います。現在は、規模の拡大や会員数の変遷で、以前の様ではないようですが。
 さらに、十勝のじゃがいもを仕入れた各クラブは、その売り上げを自分たちのクラブのファンド事業にするという、二次的な効果をもたらしていること。これは全国に広がるワイズのネットワークを活用しているという、時代を先取りした仕組みを作り上げたという点でも評価されます。

▼ クラブの基金をウォッチング
 一方、事業とは別に組織を運営する上で、ある目的のためにお金を蓄えておく場合があります。いわゆる「基金」と言われるものです。たいていは経常会計とは別にして管理しています。ワイズでも多くのクラブが、基金制度を設けていることでしょう。
 基金の目的は様々ですが、私が所属する甲府クラブでは、「基金運営委員会」が、「基金運用規定」に基づいて運用しています。基金の目的は次のように定められています。
 基金は、経常会計予算では支出出来ない特定事項の出費に備えることを目的とする。
特定事項とは、次のものとする。
⑴ YMCAやクラブの発展のため特別に必要と思われる事業。
⑵ 災害等の緊急時における支出。
 また、その運用にも次のような一定の歯止めを具体的にかけています。
(1) 1件の拠出額の上限
(2) 年度内の拠出額の合計の上限
(3) 同一事業への継続的な拠出の禁止
 これまでに、昨年の東日本大震災の支援金、クラブ周年記念事業、新クラブ設立活動費の一部、区大会ホストの費用の一部、YMCA体育館のアスベスト除去費等に用いています。
 甲府クラブの基金の残高は、ここ数年100万円前後です。基金に適正金額というものがあるのかどうかは別として、大雑把な計算ですと、会員一人当たり25,000円(現在の会員数39人)、また経常会計の予算比率からすれば28%程度です。

 基金については、クラブによってその原資や規模、運用も様々でしょう。ブリテンに「ニコニコ」とか「スマイル」といった記述がありますが、例会での献金やオークションの売り上げ等をクラブの基金に充当しているケースがほとんどです。
 基金立ち上げのきっかけや名称も様々です。
 横浜クラブや、同クラブに縁のある、横浜とつかクラブや、厚木クラブでは、「ロバ献金」と称しています。ロバの貯金箱を使用したことが、名前の由来ですが、どうしてロバなのかは不明です。聖書の中に、ロバが出てくる場面がありますが、そういう影響からかも知れません。

羊.jpg
 東京まちだクラブも「ロバ」でしたが、同クラブの小山正直さんが、2002年にシドニーで国際大会があった時に、「羊」のティッシュボックスカバーを買い求めて、献金箱にしました。以来「羊」になったそうです。集金力アップの思惑から、紙(紙幣)を好む「山羊」と同じ仲間というので、「羊」にしたのでしょうか。
 宇都宮クラブの「シゲファンド」は、1988−1989年度に東部部長をされた上野繁三郎(シゲサブロウ)さんが、エルマー・クロウ賞を受賞したことを記念してクラブに寄付をされ、クラブではこれを元に基金をつくることになり、お名前の2文字をとって命名しました。これに似たケースは他にもあるのではないでしょうか。
 東京西クラブでは、例会後の二次会での釣り銭が始まりだったそうです。
 2010年の横浜国際大会への登録費の全額、あるいは一部を基金から拠出したクラブもあったようです。区や部の役員になった人に、活動費の一部として補助する例もあります。

▼東日本区の基金
 先に、甲府クラブには、「基金運営委員会」があり、「基金運用規定」がある、と記しましたが、東日本区においては、「東日本区ワイズ基金運営委員会」が「東日本区ワイズ基金運営規定」に基づいて運営しています。
 「運営」とは、団体などの機能を発揮させることができるように、組織をまとめて動かしていくことで、「大会を運営する」とか、文字通り「運営委員会」というような使われ方をします。
 一方「運用」は、「法律を運用する」というように、そのもののもつ機能を生かして用いること、活用すること、という意味で使われます。
 その意味からすると、東日本区では、基金の運用についての具体的な定めはない、ということになります。
 東日本区の基金=JEF (Japan East Y’s Men’s Fund)は、1997年に日本区を東西に分割する時点で、当時の財産(日本ワイズ基金)を会員数で配分したもので、1975年の熱海国際大会で生じた余剰金約900万円(アタミ基金)を、東西で等分したものを併せて2,500万円でスタートしています。
 これが、2011年6月末では約2,400万円の残高になっています。この間には、記念史出版、横浜国際大会、2000P(新クラブ設立運動)、東日本大震災支援金等に拠出されてきました。
 クラブの基金と区のそれとでは、性格も運用も微妙に違うと思いますが、どちらにしても尊い浄財の集積であることには違いありません。

▼国際の基金
 ワイズの国際レベルでの基金と言えば、次の3つが揚げられます。
(1) ASF=Alexander Scholarship Fund
(2) BF=Brotherhood Fund
(3) EF=Endowment Fund
 それぞれの説明は、ロースターの「ワイズ用語」に掲載されていますので、ここでは割愛しますが、ASFは、東日本区では、メンバー一人当たり500円以上の献金を奨励しています。2011年度は約45万円が集まり、その中から国際ASFへ9万円の支出をしています。
 BFは、東日本区では、メンバー一人当たり2,000円以上の献金を奨励しています。2011年度は、現金が約210万円、使用済み切手分が約35,000円でした。これも国際へ送金されていますが、日本の貢献度は極めて高いようです。
 使用済み切手は、重さ1kgあたり600円のレートで換金されています。毎年、東日本区大会で、収集上位のクラブが表彰されていますが、去る6月の伊東での区大会では、1位の仙台クラブは13kg(7,800円分)を集めています。
 EFは、「東日本区ワイズ基金」の国際版と言えます。

▼あとがき
 蛇足になりますが、数年前、各クラブのファンド事業の“商品”を集め、インターネット上で販売する、「ワイズネット市場」なるものを提案したことがあります。小さなクラブでは、物品販売も困難なこともありますので、あるクラブが窓口になって、販売活動を促進します。その売り上げの一部を手数料として得て、それをそのクラブのファンドにするという横着なものでした。十勝のじゃがいもとは違った意味でのネットワーク利用ですが、仮に今、これを実践したとしても、ファンドとして成り立つかどうかは、保証できません。

No.4 ワイズの旗をウォッチング [Y'sdom Watching]

▼象徴としての旗─横浜国際大会から
 2010年の横浜国際大会の開会式で、各国の国旗が入場したフラッグセレモニーは、世界のワイズメンの連帯を強く意識させられました。
 区大会でも、毎年オープニングに、各クラブのバナーが集合してバナーセレモニーが行われ、大会期間中は、区(リジョン)旗が掲げられ、役員引継式では、理事ホームクラブ旗や大会旗が引き継がれます。
 旗はこのように、様々な団体・コミュニティーにおいて、そのアイデンティティの拠り所となる役割を担っています。

▼旗の種類
 2005年の第8回東日本区大会(甲府)で、「東日本区バナー図鑑」が配布されました。その年度の藤井寛敏理事のホームクラブである、東京江東クラブの寺尾紀昭さんが作成したものです。東日本区旗から始まって、各クラブのバナーの写真を一堂に集めたものでした。今私の手元には、その翌年に新しくチャーターしたクラブも加えた2006年版があります。65のクラブと甲府大会で新調された「大会旗」も加えられました。
 この「バナー図鑑」を眺めながら、ワイズの旗についてウォッチしてみたいと思います。
 ワイズにおける旗には、次のような種類があります。
・区旗(リジョン旗)
・部旗
・クラブ旗
・理事ホームクラブ旗
・東日本区大会旗
・万国旗

〈リジョン旗〉
東日本区旗.jpg
東日本区旗(リジョン旗)は、1997年、日本区が東西に分割された際に新調されたものです。日本列島をJAPANの「J」に図案化したもので、東日本区のエリアを赤く塗ってあります。ちなみに西日本区のリジョン旗も同様です。
 このリジョン旗は、1989年に制作された当時の日本区旗のデザインを踏襲したものですが、そもそもは元国際会長の青木一芳さん(千葉)によるデザインです。
 青木さんは数学者ですが、1990年に京都で開催された第21回国際数学者会議の記念切手のデザインも手がけていますし、東京セントラルクラブ(2004年)のバナーのデザインもされています。
数学者会議切手.jpg




▼クラブバナー
 ワイズの旗の中で、主役は何と言ってもクラブバナーでしょう。区大会でのバナーセレモニーを見ていると、それぞれのクラブの個性が表れていて実に楽しくなります。
 富士山周辺の、静岡・山梨のクラブは、ほとんどが富士山を表現していますし、仙台青葉城の伊達政宗像、会津の赤べこ、所沢の飛行機、川越の時の鐘、松本の松本城、長野の善光寺、横浜つづきのベイブリッジ、下田のなまこ壁等々、その地域を代表するアイテムが取り入れられています。
 面白いのは、“サンマ”の東京目黒。もちろん落語の「目黒のさんま」からの引用です。

〈バナーの形〉
バナーの形も何種類かあります。少し古いデータですが、冒頭に書いた「バナー図鑑2006」に掲載されている東日本区65クラブのバナーを調べてみますと、以下のように分類できます。

四角形型…文字通り四角形(長方形)です。65クラブ中、17クラブ(26%)でした。
ホームベース型…下辺が斜めに切り取られ、ホームベースの形(五角形)をしています。この型が一番多く40クラブで62%でした。ただ、斜めの角度が浅く、四角形に近いタイプも幾つかあります。
燕尾服型…下辺がホームベース型とは逆に切り込まれています。東京江東・東京北・東京むかで・東京南(2009年解散)の4クラブです。
特殊型…上記の型に当てはまらなくて、例えば燕尾服型の切り込みが2つ(仙台青葉城)、あるいは3つある型(宇都宮)や、東京世田谷のように下辺が波の形、また東京たんぽぽのように、いかにも女性クラブらしいデザインで下辺がハート型にカーブしているものなどがあります。
世田谷バナー.jpg
たんぽぽバナー.jpg

〈バナーの大きさ〉
 バナーの大きさも様々です。一般的なものは、幅70cm前後、高さ100cmくらいでしょうか。ひと際大きいのは、何と言っても熱海クラブです。バナーセレモニーの時など、いつも二人がかりで持って登場していますが、いったいどれほどの大きさがあるのか、測っていただきました。幅160㎝、高さ250㎝で、タタミ2帖以上の広さでした。どうして、こんな大きなバナーを作ったのか尋ねましたら、最初からこの大きさではなく、表彰で頂くワッペンを貼っていったら足りなくなって、布を継ぎ足したそうです。いつもアクティブな活動を展開している熱海ならではのエピソードと言えます。
 熱海は別格として、比較的大きなバナーは、宇都宮・東京江東・東京などが目立ちました。

〈バナーの素材〉
バナーの素材は、以前は、綿や絹が主流でしたが、最近は合成繊維(ポリエステル)が主流になっています。薄くて軽く、水に強い特徴を持っています。捺染(なっせん)の技術が進歩して様々な素材にプリントできるようになりましたが、2009年にチャーターした東京白金高輪クラブのバナーは、この仕事を請け負った原俊彦さん(当時:次期理事・東京サンライズ)をして、『これまでに最高に難しい仕事だった』と言わせしめました。
白金高輪バナー.jpg
 当時の東新部部長で、白金高輪のチャーターメンバー・堀井尭さんは、『妙高クラブが近隣の障害者施設の子どもたちを支援し、職員やボランティアと共にメネットも加わり、「さおり織」で、小物入れ等を作り販売をしておりました。また子供たちにも機織りを教えていました。その製品を見て、まもなくチャーターを迎える私共白金高輪クラブのバナーを、この素材を使って、施設の子供たちを含めた皆さんで作ってくださらないかと妙高クラブの福澤系司会長に相談しました。はじめ福澤さんは戸惑いの顔をされました。10人から15人の人々が交代で織っていく時間が計算できない。出来上がっても、文字印刷が布に定着するか心配だとのことでした。』と振り返っています。 
 手作りのバナーにこだわった堀井さんは、さらに、上辺の横芯は、白樺の自然木を使い、まさに天然素材のバナーを作り上げました。この織物にプリントを施すというのは、前代未聞の注文だったのです。

 その原さんがチャーターメンバーであった東京サンライズは、バナーセレモニーの時に、ちょっと変わったパフォーマンスをします。会長さんが一瞬立ち止まって、2枚持っているバナーを少しずらします。1枚は「紗」で織られたシースルーの生地、瞬間平面のバナーが立体的な表情を浮かべます。遊び心満点のバナーです。

〈理事ホームクラブ旗〉
 区理事を輩出したクラブが、一年間預かるのが理事ホームクラブ旗です。「REGIONAL DIRECTOR HOME CLUB」という文字と、ワイズマークが中央に配されたシンプルなデザインですが、理事を出した名誉と、その理事をクラブ全員で支える自覚と責任を象徴しているのでしょう。

〈東日本区大会旗〉
東日本区大会旗.jpg

 東日本区大会旗は2005年、甲府での区大会の時に新調されました。ホストの甲府クラブの実行委員会で、武田信男さんが発案したものです。『オリンピックでは、五輪旗が開催地の市長に引き継がれる。東日本区大会もホストクラブで引き継いで行く旗を作ったらどうか』というものでした。
 当時の区役員会に諮られ承認されましたが、制作費は、大会参加者からの寄付金と、甲府クラブからの拠出で賄われました。デザインは甲府クラブの石塚誠さん、製作は同じく石川和弘さんが請負いました。



▼目印としての旗─熱海国際大会から
 冒頭、旗は集団のアイデンティティの拠り所となる役割を持っていると書きましたが、その他にも、情報の伝達や目印といった機能も持っています。そういう使われ方をした例に、1975年に開催された熱海国際大会があります。熱海大会は、日本で初めての国際大会ということもあり、市挙げての歓迎でした。
 元国際会長で、熱海大会のチーフ・マーシャルを務めた竹内敏朗さんによりますと、『当時の国鉄総裁は、熱海駅の駅頭に無料でワイズとYMCAの旗を掲示することを快諾してくれました。また、熱海市では100万円の予算を計上して歓迎のバナーを製作し、町中に飾り付けました。』とのことです(2011年5月21日-東京むかで・東京世田谷50周年記念合同式典での講演)。熱海市民の間で、ワイズの知名度が抜群に高いのは、こういうことに遠因があるのではないかと、勝手に推測しています。

▼ワイズの旗のもとに
 旗振るな 旗振らすな
 旗伏せよ 旗たため

 社旗も 校旗も 国々の旗も
 国策なる旗も 運動という名の旗も 
 ………後略……… 
 
 これは、作家の故・城山三郎の「旗」という詩の書き出しです。第二次世界大戦の末期に、特攻隊に志願した城山の自戒を込めた詩です。
 2011年4月6日の日本経済新聞のコラム欄で、この詩が引用されました。
 『3.11の東日本大震災後、多くの公共施設で、ずっと日の丸の半旗が掲げられている。弔意は大事だが、これからの復興のために、国旗を高く掲げたい。城山三郎に「旗」という詩がある。一人ひとりの命がいとも簡単に旗の下に束ねられた戦争を知る世代の、痛切な思いがこもる。それでも今は一人ひとりのため国旗を高く掲げたい。そう言ったら城山に叱られるだろうか。』という内容でした。
 確かに旗は、「お国のため」という美名のもとに掲げられ、戦争という狂気に利用させられた経緯もあります。
 しかし一方、復興・復活のシンボルとして、人々に勇気を与えてくれるのも同じ旗です。

 ワイズの世界においても同様でしょう。
 最後に、“言葉としての旗”が使われた例を紹介します。2007年に、アジア地域会長を務められた藤井寛敏さんは、スローガンに「Let’s Join under the Y’smens’ Flag= ワイズの旗のもとに」を掲げました。私の知る範囲では、過去の国際会長やアジア会長、日本区理事の主題に「旗」が使われた例はありません。
 藤井さんは次のように言っています。
『我々の理想である、よりよき世界の実現に向かって、ワイズメンの旗を高く掲げ、道々での人びとに我々に加わることを呼びかけながら前進しよう。
 掲げる旗は我々の理想を示し、それを高く掲げることは理想の高さを示している。巻き起こす風は、決意の強さを示している。その風の流れは、理想を実現するための道である。』
(アジア地域のRDトレーニングにて)



No.3 ワイズの「主題」をウォッチング [Y'sdom Watching]

 各クラブのブリテンのヘッダーには、国際会長にはじまり、アジア地域会長、区理事、部長、クラブ会長まで、実に5人のリーダーの「主題」が掲載されています。今回は、この「主題」をウォッチしてみました。

▼「主題」と「標語」
 主題は、さまざまな団体のリーダーが、その理念や目的を簡潔に表現するもので、ワイズメンズクラブでも毎年前述のリーダーが主題を掲げ、ワイズダムを主導しています。私がワイズに入会した1994年当時は、「主題(theme)」と言わず「標語(motto)」と言っていました。
 吉田明弘さんの「Historian’s View」によりますと、『日本区時代から「motto」も「theme」も「標語」と訳していましたが、1999-2000年度の中田靖泰理事(札幌)が、「標語は不変である国際標語であるのだから、themeは主題としよう」と提案し、実行に移された』そうです。『ワイズの標語(motto)は、「強い義務感を持とう 義務はすべての権利に伴う」だけです。』
 つまり、「主題」は、その時のリーダーの思いや願いが込められているという訳です。
 近年、国際会長の主題とともに、「スローガン」が掲げられることがありますが、「スローガン(slogan)」も標語やモットーと同義語ですから、むしろ、「副題」とでもしたほうが良いのかも知れません。

▼東日本区理事の平均的主題
 「明日に向かって共に楽しみ、豊かな奉仕」─この“主題”は、東日本区スタート以来15年の理事主題を、あるソフトウェアで機械的に平均化したものです。ちなみに、15年間(1997〜2011年度)の主題を列記してみますと、
・共に実現しよう、わたしたちのビジョン!!
・ヴィジョンを持って活動の実践を! 
・やる気があれば何かが変わる! 
・心あわせて楽しく前へ
・豊かな未来へ、つなぐ歩みを 
・共に生き 共に祈る ワイズの愛 
・共に分かち合え 豊かな奉仕を
・生きている喜びを実感しよう 
・親睦・奉仕 新ワイズダムのすすめ 
・平和を目指すワイズ活動
・常に前進 若者と共に
・前へ、明日へ、世界へ 
・明日につなごう、未来につなごう ワイズの灯  
・豊かな奉仕!〜変化そして躍進!
・ワイズライフを楽しもう!そして飛躍を
 
 以上の主題に重複して使われている言葉を拾い出してみますと、「前へ(前進)、明日へ、未来へ」が-5度、「共に」が4度、「豊かな」「楽しむ」「奉仕」が、それぞれ3度となっていて、それらを組み合わせると、前掲の「明日に向かって共に楽しみ、豊かな奉仕」となる訳です。

▼個性的な部長主題
 理事主題は、区という広いテリトリーを対象としているため、どうしても普遍性や象徴性、格調の高さを表現する傾向になります。これに対し、部長の主題は、もう少し具体的で親和性のある、個性的な表現が見られます。
 私の所属する「あずさ部」では、ご存知の方も多いと思いますが、かつて下記のような主題がありました。

・「どさっ?」「Yさ!」 
(どさっ? は、「どこへ行くのさ?」という、みちのく方言)
・エッサ、ホイサ、あずさ

 これらは勿論、それなりの理由があってのことですが、理事主題ではとうてい考えられないものでしょう。あずさ部以外でも、これに似たような事例はあるものと思われます。

▼現実を反映するクラブ会長主題
 クラブ会長の主題となると、もっと現実的、具体的です。クラブが直面している課題を取り上げたり、その年度に取り組むべき活動を目標化したりする主題も見られます。私の所属する甲府クラブを例に挙げてみますと、過去に下記のような主題がありました。

・伝統あるクラブに新しい風を
 これは、クラブで初めての女性会長ということで、その意気込みを表したのでしょう。
・出席してこそワイズメン!
 出席率低下が課題になっていた頃のものです。
・みんなで耕す ワイズの芽
 「ワイズ農園」をクラブの活動に取り入れた時のものです。

▼傾向と分析
 先に掲げた、15年間の東日本区理事主題を眺めていますと、幾つかの点に気がつきます。
 まず、15年という短いスパンですが、“時代の流れ”をそれとなく感じ取ることができます。
 東日本区がスタートした1997年から数年は、新しい区のビジョン(ヴィジョン)実現への意気込みを感じ取ることができますし、2000年に入りますと、恊働と奉仕の充実が叫ばれています。また、横浜国際大会(2010年8月)の準備が本格化する2008年頃からは、未来志向のフレーズが目立ちます。
 次に、理事主題に限りませんが、幾つかのタイプに分けてみることもできそうです。
 一番多いのが「呼びかけ型」です。“実現しよう”“実感しよう”“楽しもう”と言ったものです。理事としてのリーダーシップの発露として当然でしょう。「理念型」と言えるものは、その人の理念や主張を表現したもので、“やる気があれば何かが変わる!”や“平和を目指すワイズ活動”などはこのタイプと言えます。
 一方「キャッチコピー型」というのもあります。“前へ、明日へ、世界へ”や“明日につなごう、未来につなごう ワイズの灯”などが該当します。先に紹介した、あずさ部の2つの部長主題も典型的な「キャッチコピー型」でしょう。

▼主題は最小の文学?
 私事ですが、10年ほど前にクラブ会長になった時に、初めて主題と直面しました。その時に、大袈裟ですが“主題のあるべき姿”を考えたことがありました。
 最初に思ったことは、なるべく短く簡潔なフレーズにして、会員の皆さんが覚えやすい(忘れにくい)ものにすること、というものです。できれば、その主題が“合い言葉”のように使われたらなお良いでしょう。それには、あまり“高尚な”フレーズでなく、親しみやすいものを、と考えました。今になって思えば「キャッチコピー型」を目指したと言っても良いでしょう。
 次に、字面からも発音上もリズム感があるものを、と思いました。日本語は俳句や短歌のような七五調を基本としたリズムが合っているようで、過去の東日本区理事の主題も七五調を基本としたものが多いようです。
ヴィジョンを持って(七)活動の(五)実践を(五)
やる気があれば(七)何かが変わる(七)
心あわせて(七)楽しく前へ(七)
生きている(五)喜びを(五)実感しよう(七)
ワイズライフを(七)楽しもう(五)そして飛躍を(七)
などです。
 また、七五調でなくても、リズム感を保ったものもあります。
「共に生き 共に祈る ワイズの愛」は5-6-6
「共に分かち合え 豊かな奉仕を」は8-8
「前へ、明日へ、世界へ」は3-3-4または3-4-4
「明日につなごう、未来につなごう ワイズの灯」は、7-8-5と、必ずしも七五ではありませんが、韻を踏んだり一定のリズムがあるため、分かりやすいものになっています。

▼あとがき
 クラブ会長になった時に、どういう主題にするべきかを考えたと書きましたが、影響を受けたのは、前述の2人のあずさ部長の主題です。それまで、格調の高い主題しか知らなかったものですから、“こんな主題でも許されるんだ”と思いました。
 主題を考える機会は、誰でもがいつでも与えられるものではありません。チャンスが一番身近なのはクラブ会長になった時ですが、これとて“いつでも”という訳には行きません。恐らく二度とない機会に如何に自分を主張し、会員を鼓舞するかを考えましたが、結局はクラブのためというより、自分のための主題になったような気がします。しかし、それが、その後のワイズ活動の物指しになったような気もしますので、それはそれで良かったと思っています。ワイズ活動は「世のため、人のため」ですが、最終的には自分のためですから。そうそう、蛇足ですが、私のクラブ会長の時の主題は、「一日一Y」というものでした。

No.2 女性会員をウォッチング [Y'sdom Watching]

 東日本区では、次々期(2013-2014)理事に渡辺喜代美さん(十勝クラブ)が内定し、ここ数年、区の役員にも女性会員が活躍しています。桃の節句にちなんで、今回は「女性会員をウォッチング」してみます。

▼女性会員ナウ
 2011-2012年度ロースターによりますと、東日本区で約205人、西日本区には約285人の女性会員が在籍しています。“約”と書いたのは、ロースターでは性別は表していませんので、名前の印象や生年の未記載などで推測しました。全会員の割合にすると、それぞれ17.4%と16.7%です。
 女性だけのクラブ(大阪なかのしま、東京たんぽぽ)を除いて、会員数15人以上のクラブで、女性会員の割合がもっとも多いのは長野クラブ(東日本区・あずさ部)で、15人中8人の53.3%に達しています。東京センテニアルクラブ(東日本区・東新部)の45.5%(22人中10人)、滋賀蒲生野クラブ(西日本区・びわこ部)の43.5%(23人中10人)が続きます。
 逆に、女性会員が在籍していないクラブは、東日本区が66クラブ中13クラブ、西日本区は90クラブ中15クラブです。在籍しているクラブの中には、YMCAの女性の担当主事(西日本区では連絡主事)が一人だけ、というクラブも幾つか見られますので、実質的な女性ゼロクラブはもう少し多いと思われます。

▼日本区初の女性会員
 ワイズ国際協会で女性会員が認められたのは1974年です。ちなみに、同じ国際奉仕団体であるライオンズクラブは1987年、ロータリークラブは1989年ですから、ワイズはこれらの団体より10年以上も早かった訳です。
 女性の社会進出が増えて来たこと(日本では1972年に「男女雇用機会均等法」が制定)や、会員増強の思惑とが合致したからのことだと思いますが、元々家族的雰囲気が強かったワイズにおいては、女性会員の受け入れも早かったものと思われます。

 その1974年に日本区で第1号となる女性会員が誕生しました。広島クラブの天津美穂子(あまつ みほこ)さんです。日本で最初の女性会員がどんな方であったのか、興味がありましたので調べてみましたが、詳細は判りませんでした。
 判ったのは、夫の天津暢生(あまつ のぶお)さんが広島クラブの会員で、1970年〜72年同クラブの会計をされていたこと。しかしその後お亡くなりになったこと(1974年度の名簿には記載がないので、1973年に亡くなられたかも知れません)。推測ですが、ご主人亡き後、意志を継いで美穂子さんが会員になられたこと等です。しかし、在籍期間は短かったようで、1976年の名簿にはすでに見られませんでした。

▼増加する女性会員
 その後の女性会員の推移を見てみますと、1975年の柏クラブのチャーター時に二人は確認されていますが、この年には名簿が発行されなかったため、正確には把握されていません。
 1976-1978年度の会員名簿には、仙台・東京・柏・東京西・富山・大阪土佐堀・神戸西に記載され、18人になっています。東京西クラブのチャーター時(1976)には4人の女性会員の名前があり、富山クラブの6人とともに、女性会員の多いクラブでした。1979年の高崎クラブのチャーター時にも、6人の記録があります。
 以上は「日本ワイズメン運動70年史」によるものですが、1976年の埼玉クラブのチャーター記念誌に二人の女性会員の名前がありますので、上記の1976-1978年度の名簿の18人というのは、正確には20人ということでしょうか。
 その後も順調に増加し、1996年には300人を超えます。

▼活躍する女性会員
 女性会員といえども、当然のことながらクラブ内での役割を担う事になります。
 日本区で初の女性会長となったのは、1979年の阿部あき子さん(十勝)と安藤洋子さん(東京西)の二人です。
 阿部あき子さんは、十勝クラブの第3代の会長です。チャーターメンバーであるご主人の阿部哲也さんに誘われての入会と思われますが、在籍期間はそう長くありませんでした。
 しかし、その短い期間にあって、 『阿部さん夫妻は、十勝クラブの生みの親、育ての原動力で、十勝を全国に発信してくれたスーパーヒーロー的存在でした。あき子さんが作詞・作曲した十勝のクラブソング「草原に友を求めて」は今も例会で閉会前に全員で歌っています。』(池田正勝さん・十勝)

 安藤洋子さんについては、吉田明弘さん(東京西)に情報を頂きました。東京西クラブのチャーターメンバーで、同クラブの第4代会長です。東京YMCAのデザイン研究所で革工芸の教授をされていました。そんな関係でワイズへ誘われました。デザイン研究所がなくなったため、東京西クラブを去りました。1983年度の名簿が最後です。大柄でスラックス姿、フォルクスワーゲンを乗り回し、ワイズの中にはファンもいました。リーダーシップのある方で、そのままワイズを続けていたら、部長をされたのではないかとのことです。

 初代会長が女性というケースは、1981年の名古屋サウスクラブ・藤井和子さんが最初です。藤井さんは夫の藤井賢次さんとともにチャーターメンバーでしたから、そういう面でも最初だったと思います。
 その後、女性だけのクラブ、大阪なかのしま(1997)の杉浦眞喜子さんと、東京たんぽぽ(2002)の越智京子さんを除けば、女性の初代会長は現れませんでしたが、2010年に奇しくも東西日本区で同時に誕生しました。長野クラブ(東日本区・あずさ部)の水﨑よし子さんと京都ZEROクラブ(西日本区・京都部)の高倉英理さんです。

 やがて活躍の場は、クラブから部、区へと広がって行きます。
 最初の女性部長の誕生は、1994年度です。しかも一度に3人という快挙でした。菅原美穂子さん(中部・富山)、吉野美智子さん(京滋部・京都センチュリー)、俵口未加さん(九州部・博多オーシャン)です。当時の日本区は11の部でしたから、3割近い部が女性部長だったことになります。
 その年度の理事だった岡本尚男さん(京都キャピタル)に、その時の心境を伺ったところ、『部長職の重要性を、選出した「部」の皆さんがどれだけ認識しているのかと疑問に思いましたが、これこそ偏見そのものでした。男社会の偏見を打ち破り、性別による差別の愚かさを知りました。』と語っておられます。

 日本区が東西に分割された後の東日本区においては、以下のように女性部長が就任しています。(敬称略)
1997年 渡辺喜代美(北海道部/十勝)
1998年 越智京子(あずさ部/当時・東京山手)
2000年 元井逸子(湘南・沖縄部/横浜とつか)
2002年 御喜家みどり(湘南・沖縄部/鎌倉)
2007年 青木清子(関東東部/千葉)
2008年 中田千鶴(北海道部/札幌)
2011年 遠藤利枝子(冨士山部/富士宮)
 次年度は、佐藤節子さん(厚木)が湘南・沖縄部の部長に就任します。同部からは3人目の女性部長です。

 区の事業主任については、メネット事業主任以外の最初は、1996年のIBC事業主任、中村悦子さん(当時・姫路グローバル)です。1997年以降、東日本区においては、事業主任が国際担当と国内担当の二人制だったこともあり、女性が就任する機会はありませんでしたが、2004年から4人制に移行してからは、今年度までに、
2005 年 越智京子(ユース/東京たんぽぽ)
2010 年 吉田紘子(ユース/東京銀座)
2011年 長谷川あや子(地域奉仕/東京八王子)の3人が就任しています(敬称略)。次年度は、小山久恵さん(地域奉仕/東京サンライズ)と宮村智子さん(ユース/横浜つづき)の二人が内定しています。
 長谷川あや子さんは、2009年(原俊彦理事)に区の書記を務めていますが、日本区時代からも含めて、女性の区書記は初めてだと思います。
 区の会計には、2007年の藤江喜美子さん(東京たんぽぽ)と、2010年の佐藤茂美さん(東京)が就任しています。

▼女性理事の誕生
 トップリーダーである理事には、2007年に東日本区で越智京子さん(東京たんぽぽ)が就任したのが最初です。その翌年、西日本区で佐藤典子さん(熊本ジェーンズ)が就任しました。お二人の活躍は記憶に新しい所です。
 そして冒頭にも書きましたが、次々期東日本区理事に渡辺喜代美さんが就任します。渡辺さんは北海道部の部長の他、1999年に十勝で開催されたアジア地域大会の実行委員長も務められました。

▼舞台は国際へ
 “遠眼鏡”で世界をウォッチしてみますと、アジア地域では、2004年に長尾ひろみさん(当時・大阪土佐堀)が会長に就任しました。長尾さんは2002年に国際議員としての実績があります。事業主任では、中村悦子さんがクリスチャンエンファシス事業主任を2000〜2002年に亘って務められました。
 参考までに、最初の女性国際会長が誕生したのは、1990年、Rachelle Reegさん(アメリカ)でした。その後は候補者はいましたが、当選した女性会長はいません。ちなみに、Reegさんは昨年、バランタイン賞を受賞しました。

▼メネットのことなど
 同じ女性という視点から見ても、メネットの存在はワイズダムにおいて重要な位置を占めています。日本におけるメネット運動のあゆみについては、「日本ワイズメン運動70年史」と「東日本区10年の歩み」に詳述されていますので、ここでは触れません。
 視点を変えて、メネットからメンへ転身されたケースについての歴史を調べようとしましたが、女性会員第1号である、天津美穂子さん以降、そういうケースがどれくらいあったかを把握するのは困難でした。
 いずれにしても、それらのケースの理由として考えられるのは、
①メンである夫の遺志を継いでのこと
②ワイズ活動が楽しくなり、メネットではもの足りなくなったこと
③クラブの会員増強事情に押されてのこと
などが挙げられます。

 西日本区には「特別メネット会員」制度があります。西日本区のロースターの「ワイズ用語抜粋」の「特別メネット」には、『ワイズメンの夫人ではないが、各個クラブが入会を認めた女性』とあります。これだけを読むと、一般の女性会員と何ら変わらないと思えますが、その辺の事情を西日本区の会員の方に伺った所、女性会員が認められない時代に、メネット活動を強力に推進していたクラブが、夫の入会がないがクラブ活動に賛同する女性を、会費も低額で「特別メネット」として迎えたのが始まりだそうです。現在はメネット数には数えますが、会員数には含まれないそうです。

▼始まりは遊び心から
 1997年、日本で初の女性だけのクラブ「大阪なかのしまクラブ」が誕生しました。親クラブである、大阪センテニアルクラブには、さぞかし綿密な戦略と高い志があったものと思いましたから、初代会長になられた杉浦眞喜子さんに、その辺の事情を伺ったところ、意外な返事をいただきました。
 『エクステンションの話が出た時、「どうせするならよそと違ったことを!」という乗りで、たまたまセンテニアルの IBCである香港のボヒニアクラブが女性のみのクラブでしたので、そこからヒントを得ました。「なんで今ごろ女性だけ?」「時代に逆行しているのでは?」などという問 いには、「いろいろあってもいいのでは?」とかわしていました。』とのことで、それほど“高尚な”想いがあった訳ではないそうです。
 その5年後の2002年、今度は東日本区で「東京たんぽぽYサービスクラブ」が誕生しました。初代会長は越智京子さんです。チャーターナイトの式典後、両クラブのDBC締結式が執り行われました。
 その後、女性だけのクラブは生まれていませんが、1990年の滋賀蒲生野クラブは、チャーター時に夫婦が全員メンバーになった初めてのクラブです。
 2006年の“横浜つづき”は、“ワイズメン&ウィメンズクラブ”という名称にしました。これも夫婦のメンバーが多かったことからの命名です。

 国際レベルで女性クラブがどれくらいあるのか、国際本部の西村隆夫さんに尋ねた所、統計としてはとっていないが、およそ20クラブほどではないかとのことでした。“たんぽぽ”同様、花の名前を付けたクラブ名が多いようです。
 組織の名前に“メン=Men”と入っていると、カナダ、北米、南太平洋エリアでは、運動の展開が困難との意見が強くなっているとのことで、今後の課題の一つになるのではと思います。一方、ロシアでは“ワイズメンズクラブ”となっていても、女性だけのクラブが増えているそうです。

▼あとがき
 国際協会で女性会員が認められてから、日本区で初のクラブ会長が誕生したのは、わずか5年後でした。しかしその後、部長の誕生までには20年を要しました。その年度の理事を務められた岡本尚男さんは、『私の理事の時代が、まさに女性が表舞台に躍り出る前兆でした。男社会に対する決別を迫られた事は否めません。』と語っておられます。ちなみにその年のメネット主任が10月に急逝され、その後任を岡本さんが代行しました。
 西日本区では、現在も男性会員がメネット主任や部の主査を務めるケースがありますが、この時のことが起因しているのかなと、推測します。

 それからさらに13年後、日本で初の女性理事になった越智京子さんは、東日本区全クラブを表敬訪問されました。だいぶ前にその越智さんに、理事を終えた感想を伺ったことがありました。『日本初の女性理事ということで、国際でも注目された。従って猛勉強もした。国内外のワイズメンとの出会いは一生の財産になった。』

 女性は大好きですが、女性について書くことは苦手で、まして“ウォッチ”することなど、大それたことと思っています。非礼があったらどうかお許し下さい。
 最後に杉浦眞喜子さんと、越智京子さんの言葉を紹介します。
 『女性は「慎重」です。誘っても、なかなか入会に応じません。しかし、一旦決心すると「強い」です。「真面目」にしっかり、やらなければならないことをこなしていきます。』(杉浦さん)
 『たんぽぽは、見かけによらず、その根を地中1.5メートルもの深さにまで張っている。私たちもワイズの世界に、しっかりと根を張って、地道で着実な奉仕活動を進めて行きたい。』(越智さん=たんぽぽのチャーター記念誌より)
 女性の特性が、今一番求められているかも知れません。

▼予告とお願い
 次号以降は、「ワイズの旗をウォッチング」と「ワイズの歌をウォッチング」を予定しています。
 そこで、以下の情報を求めています。
①皆さんのクラブのバナーについて、“うちのクラブのバナーはこういう特徴があるよ”という情報をお寄せ下さい。例えば、大きさ、形、素材、デザインの由来等。出来れば画像もメール添付で送っていただければ助かります。
②皆さんのクラブ、部には、“クラブ歌、部歌”がありますか?(今号でも触れました、十勝の「草原に友を求めて」のような)
 あるいはなくても、例会で良く歌う歌がありますか? そして、どうしてその歌を歌うようになったのですか?
 以上の2点について、情報をお寄せ下さい。
 なお、発行時期は今の所未定です。情報の集まり具合を見て、ということになります。

「万葉の森評議会」 [部]

万葉の森評議会.jpg あずさ部の第2回評議会が、山梨市の「山梨市地域交流センター街の駅やまなし」で開催されました。12クラブ67名の出席者でした。今回は「万葉の森評議会」と命名されました。会場の近くにある万力公園内に、万葉集で詠まれた110種の植物があることから名付けられました。
 あずさ部以外の部の評議会についてはよく知りませんが、少なくとも評議会にニックネームが付くのは、おそらくあずさ部だけでしょう。日本区が東西に分割されて部の再編が行われ、あずさ部がスタートした1997年、初代部長の大塚篤郎さん(甲府クラブ)は、新しい部の交流促進のために、各クラブが評議会を持ち回りでホストし、議決権者以外の会員の参加も奨励しました。そして、その場に相応しい名称(ニックネーム)を付した評議会を開催することにしました。
 7月からスタートする前の1997年4月、満開になった桃の花の下で「桃の花模擬評議会」が開催されました。その後、ワインの郷評議会(勝沼ぶどうの丘)、摩天楼評議会(東京都議会レストラン)、大江戸下町評議会(台東区民会舘)等、ユニークな名称の評議会が開催されています。この名称の効果は、『あの時の評議会では、こういうことが決まった』というように、記憶を呼び戻す手掛かりになることです。今日の「万葉の森評議会」も、きっとその一つとなることでしょう。

チャーター記念誌 [ヒストリアン日誌]

ヒストリアンに就任して、初めて実質的な仕事をしました。
第2回東日本区役員会の前日上京し、資料庫のある地下室に篭り、3時間ほど資料のチェックと少しの調べ物をしました。とても数時間ですべての資料のチェックは出来ませんので、今回は取りあえず、「認証状伝達式」の資料を確認しました。前任者、前々任者の方が綺麗に整理されていましたので、スムーズに作業が進みました。帰宅して整理してみると、幾つかのクラブの資料が欠落していました。50年以上も前の古いクラブのものは、すでに現存していないかも知れませんが、ここ最近のクラブのものもあり、これらは記念誌が作成されなかったのか、誰かが持ち出したのかも知れません。
甲府CNプログラム.jpg我が甲府クラブも昨年60周年を迎えましたが、チャーターナイトプログラムは保存されていませんでした。ところが数年前、古い会員の自宅から、当日のプログラムが出て来ました。これをカラーコピーして保存してあります。
プログラムには、奈良傳の名前や「ワヰズメンズ倶楽部」といった表現がありました。

No.1 クラブの名称をウォッチング [Y'sdom Watching]

▼前口上
 インターネット上の図書館「甲府ワイズ文庫」では、各クラブの例会や、その他の会合での卓話や講演、またブリテンに掲載された論文やエッセーなどを収蔵してきました。しかし、これまでのような受け身の姿勢では、なかなか文献も集まらず、これからの図書館経営を考えると、自ら発信する役割も果たすべきではないかとの思いから、新たな媒体「Y’sdom Watching=ワイズダム・ウォッチング」なるものを発信することに致しました。

 東日本区前ヒストリアン・吉田明弘さん(東京西)の「Historian’s View」(以下H.V)は、「理事通信より狭く・詳しく」「区報よりタイムリーに」をコンセプトに、「半官半民」のスタンスで発行されました。
 この「Y’sdom Watching」は、比較するのは、あまりにもおこがましいことですが、「H.Vより浅く・ミーハー的に」「気が向いたら発行」をコンセプトに、ワイズダムの様々なシーンを時には虫眼鏡で、時には遠眼鏡で“路上観察”してみたいと思います…。という訳で、「View」と「Watching」の、その意味するところ─「見解」と「観察」─の違いが本質にあります。
 第1号となる今回は、「クラブの名称」をウォッチングしてみました。

▼クラブ名と都市名
 2003年、富士五湖クラブを設立する時に、「富士五湖」という名称が話題になったことがありました。
 ワイズ国際憲法-ガイドライン302及び、「新クラブ発足の手順と必要な手続き」(東日本区の「Handbook&Membership Roster」に掲載)には、クラブの名称には都市名を冠するという項目があります。「富士五湖」が都市名に該当するか、という議論でした。

 「都市」という言葉を辞書で調べますと、『人口が集中し、その地域の政治、経済、文化の中心になっている町』とあります。「都市名」は、そういう町の名前、ということになります。名前があるということは、住所の表示にも反映され、そこには行政の機能があるということでしょう。そういう意味からすると、古くから「富士五湖」という地域の呼称はあるものの、「富士五湖市」や「富士五湖町」はその当時もありませんでしたので、富士五湖クラブは手続き違反ということになります。
 これに似たケースは、それ以前にもなかったわけではありません。1977年チャーターの十勝クラブは、「十勝支庁(現:十勝総合振興局)」という北海道の出先機関の名称はありますが、都市名としては「帯広」になります。「十勝の国」という地域名が古くから親しまれて来た経緯からの命名だと思います。

 富士五湖以降も“新種”の名称がいくつか現れました。2005年の信越妙高クラブは、「妙高市」という都市名で問題ないのですが、これが「妙高信越」でなく、都市名が後ろに付く珍しいケースと言えます。と言うのは通常は都市名が頭にあって、次に地域などを示す名称が配されます。妙高市を含めた広い地域の呼称を頭に使った所に、命名に込められた意図があるものと思われます。
 金沢八景クラブ(2006)は住居表示としては、「横浜市金沢区」で、都市名としては横浜市または金沢区が該当しますので、本来なら「横浜金沢クラブ」でも良いのですが、駅名にもあるようにこの地域が「金沢八景」という呼称で古くから一般的に呼ばれて来たことの方に、大きな理由があるものと思います。

 “都市名を冠する”という趣旨は、クラブが存在する地域を特定できる、という意味だと思います。「富士五湖」も「十勝」も「信越妙高」も「金沢八景」も、たいていの日本人であれば、それがどの辺りにあるか、ということはおおよそ認識できると思います。
 今後市町村合併がさらに進み、道州制が導入されれば、都市の呼び名も変わる可能性もありますから(現に随分変わりました)、いくらかの“疑い”があったとしても、「都市名」の定義は柔軟に考えたいものです。

▼クラブ名称の分類
 富士五湖クラブの名称が話題になった時、他のクラブのネーミングについて改めてウォッチしたことがありました。そして、それらは幾つかの種類に分類出来るのではないかと考えました。
 在京のクラブを例に紹介してみます。
①都市名型…文字通り都市の名前だけを冠したものです。その都市に最初に設立されたクラブはほとんどがこの型です。例゠東京
 同一都市で2番目以降のクラブは識別が必要なため、二次的な名称を冠します。
②地域名型…都市名の次に地域の名称を付けたものです。例゠東京山手、東京江東、東京世田谷、東京目黒、東京まちだ、東京八王子、東京銀座
③方位・地理型…方位・方角や、河川・港湾などの地理を表したものです。例゠東京西、東京、東京ひがし
④由来型…故事来歴、謂れなどから命名したもの。例゠東京むかで、東京センテニアル
⑤イメージ型…クラブとしての志向や意識を表現したもの。例゠東京グリーン、東京コスモス、東京サンライズ、東京たんぽぽ

 これらの型を複数持ち合わせた複合型の場合もあります。例えば、東京セントラル(2005)は、セントラル=中央で、方位・地理型ですが、イメージ型の要素も含んでいるものと想像します。
 また、地域名を併記した例もあり、2006年に東京武蔵野クラブと東京多摩クラブが合併し、東京武蔵野多摩クラブとなったケースや、東京白金高輪クラブ(2009)のようなケースもあります。以上のような分類は、ロータリークラブやライオンズクラブなど、他の国際奉仕クラブにも共通するでしょう。

▼ネーミングの変遷
 クラブのネーミングの変遷を見てみますと、当然のことながら、日本で最初のクラブである大阪クラブ(1928)を筆頭に、ワイズダムの草創期には都市名だけのクラブが設立されて行きました。
 地域名型のネーミングが初めて使われたのは、1951年の大阪土佐堀クラブです。大阪クラブに次ぐ、大阪YMCA二番目のクラブですが、同一YMCAとして複数のクラブが誕生した最初のケースでもあります。
 その後、53年の東京山手、56年の東京武蔵野と続き、50年代、60年代は、地域名型のネーミングが主流となって行きます。

一方、方位・地理型は、1956年の大阪サウスクラブが最初です。「南」でなく、「サウス」と英語をそのままカタカナ表記した最初のクラブでもありました。チャーターメンバー32人のうち3人が外国人であったということもあるでしょう。
 その後、神戸西(61)、東京西(76)、横浜ノース(77=2010解散)と80年代以降も続きます。
 余談ですが、方位を付けたクラブはそれぞれ、
—東京ひがし(88)、宇都宮東(93)、熊本ひがし(04)
西—神戸西、東京西、京都ウェスト(80)、大阪西(86)、広島西(09)、熊本にし(09)
—大阪サウス、熊本みなみ(02)、岩国みなみ(11)、東京南(88=2009解散)
—札幌北(81)、東京北(81)、横浜ノース、となっており、「西」が飛び抜けています。クラブ拡張は、西へ進むと効果大なのでしょうか。「西」の6クラブはヘキサゴンDBCの交流を行っていますし、東京ひがしと京都ウェストはDBCを結んでいます。
 また、河川などの地理に関する命名は、
河川—和歌山紀の川(84)、仙台広瀬川(11)
城郭—京都パレス(71)、仙台青葉城(80)、彦根シャトー(82)
港湾—博多オーシャン(87)、神戸ポート(88)
などです。

 意外と少ないのは、由来型です。1961年の東京むかでクラブは、野尻湖、山中湖キャンプの創始者小林弥太郎が経営していた砂糖問屋の屋号「百足(むかで)屋」に由来します。
 仙台青葉城(80)の場合は、青葉城(仙台城)という史跡からすると方位・地理型ですが、その頃大ヒットした歌謡曲「青葉城恋唄」(1978)と、当時大相撲で活躍していた関取のしこ名「青葉城」からの影響を考えると由来型とも言えます。今年誕生した、「仙台広瀬川クラブ」は、「青葉城恋唄」の歌詞の冒頭に出てきて、物語性の濃い命名だと思います。
 京都めいぷる(83)は、京都の西北に位置する高雄という紅葉の名所から、熊本ジェーンズ(87)は、熊本洋学校を設立し、熊本バンドの礎を築いた、リロイ・ランシング・ジェーンズ(1837-1909)からであることは言うまでもありません。

 同一都市にクラブが増えて来ますと、必然的にイメージ型のネーミングが多くなって来ます。日本区で最初のイメージ型のクラブ名は、おそらく1973年の東京グリーンクラブではないでしょうか。ゴルフ場と間違えられたという逸話がありますが、もちろんネーミングの意図は別の所にあったと思います。
 その後、80年代になって続々とイメージ型が登場します。京都キャピタル(83)、熱海グローリー(84)、京都プリンス(86)、東京サンライズ(89)などです。東京サンライズは発足当初、例会を早朝に行っていた事はよく知られています。

▼イメージの京都部
日本のワイズメンズクラブの中でイメージ型が多いのが西日本区の京都部でしょう。京都部は現在18クラブですが、京都、福知山の都市名型、京都洛中、京都東陵の地域名型、京都パレス、京都ウェストの方位・地理型、京都めいぷるの由来型以外は、すべてイメージ型のクラブ名です。(以下京都を省略)キャピタル、プリンス、センチュリー、ウィング、エイブル、グローバル、みやび、トップス、トゥービー、ウェル、と続き、2010年8月には、京都ZEROクラブが誕生しました。アルファベット表記のクラブ名はおそらく日本で初めてでしょう。
 千年の都京都のクラブが、新しい感覚でクラブ名を命名していることに驚きますが、逆に言えば、常に先進的な気風を持ち続けて行くことの積み重ねが、伝統を築いて行くのだとも言えます。

▼漢字・カタカナ・ひらがな…そして
 クラブ名の文字の表記の変遷も、世の中の流れと同様であることがわかります。
 初期の頃は、当然都市名型が多かったのでそのまま漢字ですが、1956年の大阪サウスをきっかけに、京都パレス(71)、東京グリーン(73)など70年代からカタカナ表記が増えて来ます。
 ひらがなも東京むかでからしばらく間をあけて80年代になると増え始めます。京都めいぷる(1983)のように本来カタカナ表記すべき所を、ひらがなで表現している場合と、東京ひがし(88)のように、通常漢字表記してもよいものを、ひらがなにしているケースとがあります。いずれの場合も見た目の印象に配慮してのものでしょう。

 これらのケースは肝心の都市名の部分は必ず本来使われている文字(漢字)で表して来ましたが、「さんだクラブ」(1993=西日本区・六甲部)は、「三田」ではなく、ひらがな表記にしました。「みた」と読み違うことを危惧してのことでしょうか。東日本区では2007年の「もりおかクラブ」が最初です。東京まちだ(91)、横浜とつか(94)、横浜つづき(06)は、地域名をひらがなにしています。国際協会への登録はローマ字ですから、読みが合致していれば漢字でもひらがなでも構わない訳です。
 そして、前出の英字の「京都ZEROクラブ」です。ZEROは数の「0」ですが、数字そのものを表記しているのは、甲府21クラブ(90)のみです。21世紀を間近に控えての意気込みの表現でしょう。ZEROも21も自らの立ち位置を表しているように感じられます。

▼親子関係
 新しいクラブが誕生する時、そのクラブ名を命名するのは、スポンサークラブである親なのか、それとも子ども本人の自主性を重んじるのか、様々なケースがあると思いますが、親子関係という視点で見た時に、“なるほど”と思わされるケースがありました。
 今年チャーターした「仙台広瀬川クラブ」の親は「仙台」と「仙台青葉城」です。“青葉城”と“広瀬川”で、前出のように「青葉城恋唄」を連想するのは私だけではないでしょう。
 また、「京都プリンス」の親は「京都パレス」です。京都パレスは設立当時、京都御所の西側にあった「京都YMCA今出川センター」に事務所を置き、“御所”の近くにあるところから“パレス”と命名されました。その子どもは当時、京都部では一番若い平均年齢(30代前半?)で構成されていましたので、“皇太子”のイメージから“プリンス”と命名されました。
 「京都さくらクラブ」(1993)の親は、“かえで”の京都めいぷるでしたが、2008年、花びらが散るように解散したのは残念なことでした。

▼クラブ名とロゴ
 横睨みになりますが、クラブ名のロゴタイプについて触れてみます。各クラブのブリテンを拝見すると、ロゴやシンボルマークがヘッダーに掲載されているのを見かけますが、そう多くはないように思います。私の属する「あずさ部」では、ブリテンのヘッダーにロゴタイプのクラブ名を掲げているのは12クラブ中1クラブ(東京サンライズ)のみです。ブリテン名称やシンボルマーク、バナーのデザインを掲載しているものは結構あります。
 クラブを企業にたとえるならば、ロゴやシンボルマークがあっても良いはずです。これからチャーターするクラブや、既存のクラブでも周年記念などの機会にロゴやシンボルマークを制定したらどうでしょうか。
 シンボルマークについては別の機会にウォッチしてみたいと思います。

▼あとがき
 かねてから京都部のクラブ名に興味を持っていましたので、4つのクラブ(パレス、ウェスト、めいぷる、キャピタル)の名称決定に関わられた岡本尚男さん(京都キャピタル)に、その辺の事情をお聞きしました。改めて命名に対する“思い”があることを知りました。同時に、将来をも見据えた“思い”があることも知りました。
 例えば、京都めいぷると京都キャピタルは京都パレスの“双子”として誕生しましたが、当時パレスクラブ内では、『これを機に京都市内の各行政区に一つずつクラブを増やそうということが語られた』そうです。
 現在18クラブ500人に成らんとする、京都部の現実がそれを物語っています。

▼言い訳的あとがき
 吉田明弘さんのH.Vが1年で終わったことが、あまりにも残念であることは、私だけの思いではないはずです。このようなメディアが何らかの形で継続できたらと思いますが、いくら後任のヒストリアンだからといって、私には“View”は書けません。せいぜい書こうとすれば、ミーハー的観察です。ヒストリアンという役職が動機になっていることは否めませんが、あくまで「甲府ワイズ文庫司書」としてのスタンスでの発信です。
 ワイズ歴が浅く、浅学な身には、実体験のない事柄や、自分の所属する、あずさ部や東日本区以外については、当然のことながら知りません。
 とは言え、歴史的な事実は正確を期す必要があります。その点については、誤りがあればご指摘下さい。その他の文章表現の稚拙さなどには、目を瞑って頂きたく思います。
 H.VのNo.14は「部のネーミングとイメージ」でした。このクラブ版を書けないかと思いついたのが今号です。H.Vで、おおかたのテーマは出尽くされましたので、今後はその間隙を縫った重箱の隅をつつくような素材探しになるおそれがあり、早晩行き詰まるであろうことが予想されます。そうならないためにも、将来的には「執筆者」という立場よりも、「編集者」的立場で発信できたらいいなと思っています。

 なお、次号は、「女性会員をウォッチング」したいと思いますが、「気が向いたら発行」をコンセプトにしていますので、時期は未定です。 
 皆様からの忌憚のないご意見、ご感想、ご提案、情報提供などいただければ幸いです。

地下室での引き継ぎ [ヒストリアン日誌]

ヒストリアン引き継ぎ.jpg 新年度に入ってなかなか出来なかった、ヒストリアンの引き継ぎを東日本区事務所で行いました。前任者の吉田明弘さんから地下室にある資料庫で、日本区時代からの資料の説明を受けました。これからこの地下室が仕事場になる訳です。書棚には各クラブのチャーター、周年記念、区大会、区報等の資料が保存されています。今後の保存方法として、種類別に保存する方法と、年度別にする方法と、どちらが良いかも検討する必要があります。
 また、今後の課題の一つ、デジタルデータでの保存という問題。たまたま、区事務所のコピー機を複合機に入れ替えるということで、メーカーの営業マンからの説明会に立ち会わせて頂きました。デジタルでの保存は、記憶媒体(メディア)そのものの変化もありますから、どういう手法でどういう資料を保存するか、という問題を検討しなければなりません。今後の大きな課題です。
 6月の松本での東日本区大会で役員引き継ぎ式がありましたが、その時は“ひっそり”と写真も写されずの引き継ぎでしたので、今回写真撮影もしました。ヒストリアンらしい引き継ぎだと思います。

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